第65話 名前

縁側に二人並んで座る。

扇風機の風はあまり身体によくないかと思い、団扇うちわあおぐと、何故かちょっと睨まれた。

「もう、あなたは私を甘やかし過ぎ」

「いや、でも」

俺が少し狼狽うろたえると、柔らかい笑みが返ってくる。

甘やかされているのは俺の方じゃないかなぁ。

「あ、今お腹を蹴った」

妻の声が弾む。

耳を澄ませても聞こえるはずは無いけれど、大きくなったお腹に顔を寄せる。

耳に届くのは、風鈴と、せみの声、夏の風、日が燦々さんさんと降り注ぐ庭の賑わいばかり。

「あなたに似てればいいなぁ」

「いや、その元気さはお前に似てるんじゃないか?」

最近、お腹の子は随分と暴れるようだ。

「……どういう意味?」

「いや、俺はどちらかと言えばおとなしい子だったし」

「……まあ、どっちに似ててもいいけど、元気な子がいいよね」

賑やかだけど静かな田舎の家。

二人で暮らすには広すぎるし、駆け回ったり、かくれんぼが出来るくらいの部屋数。

「もっと賑やかにしたいなぁ」

「この子はきっとモテるわよ」

「そうかなぁ」

「モテて、幸せな結婚をして、子沢山に恵まれるの」

この縁側に、息子とその奥さん、そして孫がいる光景を想像してみる。

それぞれの顔なんて思い描けないけれど、ふっ、と賑わいが耳に届く気がした。

「あ、また蹴った」

「出たがってるのかなぁ」

「早くお父さんの顔が見たいって」

「いや、お母さんだろ」

笑みを交わす。

「漢字はどうする?」

名前はもう決めていた。

「もちろん幸せって漢字でしょ?」

「んー、親孝行の孝がいいなぁ」

「それだったら幸せの方がいい」

妻は頑固だ。

細かいことにはこだわらない大らかさをもっていながら、言い出したらなかなか折れない。

妊娠してから更にその傾向は強くなったようで、今も大きくなったお腹をさすりながら、自分をつらぬき通すような母親の覚悟みたいなものを漂わせている。

「いっそのこと、幸多、えーっと、さち多いにするか?」

「ダメよ。二文字目は変えない」

困ったなぁ。

俺は妻の顔を見て苦笑いする。

「ちょっと待ってて、辞書を持ってくるわ」

「いや、俺が行く」

身重みおもの妻を制止して立ち上がる。

意思の強そうな顔がほころぶのを見て、俺は二階に行く。

階段も、廊下も、この本棚を埋める本も、やがて生まれてくる子供が歩き、手に触れ、全てをかてとして成長していくのだ。

そう考えると、何一つおろそかに出来ない気がした。


夏の午後、出産予定日まであと一ヵ月を切った。

人の命、人生、柄にもなくそんなことを考える。

自分がこれまで生きてきた証? いや、そうじゃなくて、ちゃんと育て上げてこそ、それは生きた証になるのだろう。

俺は分厚い辞書を本棚から取り出す。

漢字の意味、名前の意味、それがどれだけの影響を及ぼすのか判らないけれど、一つ一つ悔いの無いようにしなければ。


一階に降りて縁側に向かうと、庭に降り注ぐ強い日差しが妻の後ろ姿を浮かび上がらせていた。

そのシルエットは、よく知った妻のようでもありながら、どこか崇高なものにも思えて、しばし見入ってしまった。

妻は俺の気配に振り返って微笑む。

分厚い辞書を掲げてみせると、その笑みは日差しと重なって、ひまわりみたいに周囲が華やいだ。

「あなたって春みたい」

妻は笑ったまま言うけれど、ちょっと意味不明だ。

でも、褒められてるっぽいことは判る。

「きっと、お腹の子も春みたいな子よ」

母親の顔をして、確信めいた口調で言う。

「いっそのこと、春介にするか?」

「それはダメ。真夏に生まれるのよ?」

春を介するって、素敵なことだと思うんだけどなぁ。

それを言ったら、幸せを介するのも素敵ではあるのだが。

「なあ孝子」

「ん?」

「孝の字の意味、悪くはないだろ?」

顔を上げずに、妻は辞書を熱心に見ている。

「んー、気に入らない」

「どうして」

「別に親孝行なんて望んでないもの」

それは判る。

元気で育ってほしいとか、幸せになってほしいとか、そういった想いが最優先だ。

けれど……。

「お前の名前から一文字、絶対に取る」

大きな溜息。

「私、孝子って名前、あまり好きじゃないんだけど」

「俺は孝子が好きだ」

苦笑しながら頬を染めるものだから、俺はまた見入ってしまう。

「恵介」

孝子は真剣な目をして俺の名前を呼んだ。

「な、なんだ?」

「好きでいてくれるのは嬉しいけど、それとこれとは別なの」

「マジで!?」

「マジです。あなたの気持ちよりも、生まれてくる息子の幸せが最優先」

「いや、二人から名前を取れば、絶対に幸せになるって!」

「だ~め。幸せという漢字で幸介」

妻は絶対に折れそうにない。

けれど俺も折れるつもりはない。

意外と俺も、頑固なのかも知れない。


孝介は、八月のよく晴れた日に産まれた。

この年、いちばん暑い日で、アスファルトの向こうには陽炎かげろうが立ち上っていた。

畑仕事をしていた俺は、病院に駆けつけ、産まれたばかりの孝介を見た。

それは、なんと表現すればいいのだろう。

小さく、けれど一所懸命に泣く姿は、躍動感に満ちていた。

命があふれるようで、俺はただ、嬉しくて泣いた。

自分の分身が、愛する人の分身が、産声を上げている。

こんなに嬉しいことが、他にあるだろうか。


孝子が退院する前に、俺は出生届を役場に出しに行った。

最後まで迷ったけれど、俺は「孝介」と記入した。

孝子と、俺の子だ。

親孝行を望む訳じゃない。

お前は、俺と孝子の結晶なんだ。

孝介、お前が誰より幸せになりますように。

その願いは二人のものだから、二人の文字にそれを託そう。


……孝子には後で随分と怒られたけれど、最後には笑ってくれた。

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