第63話 お別れ

歳は取りたくないものだ。

最近、目がかすんであまりよく見えない。

でもここは、本当に居心地がいい。

敵はいないし、賑やかで、楽しくゆったりと日々が流れていく。

風の音、お日様の光、みんなの笑顔と、柔らかな空気。

そう言えば、アイツらは元気だろうか。

あれから何年経ったのか、それさえも判らないけれど、まだあの街のどこかで過ごしているのだろうか。

ちりん、と風鈴が鳴る。

最近、暑いのか寒いのかもあまり判らなくなってきた。

どういう訳か耳だけはいいので、その音が夏を連れて来るように感じられた。

タマがてるてる坊主を作っている。

相変わらず子供じみたことをするヤツだ。

そんなことを考えていると、タマが「む」という顔をして、ツンツンと鼻をつついてきた。

もう昔みたいにじゃれたりはしないから、物足りなそうに口をとがらせ、てるてる坊主作りに戻る。

きっと近いうちに、みんなでどこかへ出掛けるのだろう。

その日は、晴れるといいなぁ。


そろそろかな。


さらさらと柔らかな雨の音がした。

タマがてるてる坊主を床に叩きつける。

コイツが教育者であることに不安を覚えるが、優しいヤツであることは知っている。

そう言えば、水槽の魚たちを随分と一緒に眺めたっけ。

きらきらと光るタマの瞳。

水槽に泳ぐ魚のうろこみたいに、毎日きらきらがあふれていた。

台所からはコトコトと何か煮込む音。

昨夜のカレーを温め直しているのだろうが、匂いは判らない。

みゃーの足音が近付いてきて顔を上げると、その笑顔は降り注ぐようにそこにある。

あの街で初めて会ったときも、みゃーはそんな笑顔をしていた。

ラーメンの匂いとビールの匂い。

行き交う車やバイクの音。

見上げれば、薄汚れたコンクリートの壁ばかりだったあの場所に、みゃーは毎日やってきた。

見上げた空は狭くても、見上げることが楽しみになって、ボクは毎日みゃーを見上げていた。


そろそろかな。


平日の日中は暇だ。

ちりん、と鳴る風鈴の音に耳を傾け、身体を横たえたまま庭に溢れる光を見る。

ぼやけて見えないけれど、きっとヤブカンゾウの花が咲いているのだろう。

勝手に生えてきた雑草みたいなものでも、夏を思わせる橙色のあの花がボクは大好きだ。

すんすんと鼻を鳴らしてみても、せ返るような夏草の匂いは届いてこないから、少しだけ寂しくなる。

ちりん、と風鈴が鳴る。

稲が伸びて、緑いっぱいの風景が瞼に浮かぶ。

蝉の声。

入道雲は遥か彼方。

誰もいない日中は暇だから、かつて歩き回ったボクの縄張りを、頭に思い描いて眠る。


軽トラックの音。

コースケが帰ってきたようだ。

コースケ、キミがボクを腕に抱えてトラックに乗り込んだ日のことを、最近しょっちゅう思い出す。

キミの腕の中から見た、初めての景色、知らない世界。

それから、一年以上も続いた二人きりの生活。

あの頃のキミは、ボクに話し掛けてばかりいた。

通じない言葉がもどかしくて、ボクは何度も腕を伸ばしたけど、キミは嬉しそうに笑うばかりだった。

でも、ボクもキミの笑顔を見るのは嬉しかった。

最近のキミは、またあの頃みたいによく話し掛けてくる。

あの頃みたいに寂しそうな顔もよくする。

けれどそこに、あの頃のような待ちわびる目の輝きは無い。

あの頃は未来が待ち遠しくて仕方なかった。

やがて訪れる賑やかな家庭をキミは楽しげに語り、思い描き、それを二人で夢見た。

でも、コースケと二人だけの生活も、ボクは大好きだった。


キミはボクにご飯を用意して、またいつものように話し掛けてくる。

口元に差し出されたスプーンを少しだけ舐めて、ボクが食べるのをやめてしまうと、キミは酷く悲しそうな顔をした。

「にゃあ」

言葉が伝わらないのがもどかしい。

でもキミは、少しだけ嬉しそうに笑ってくれた。


みゃータマコンビが帰ってきた。

いつもより早いような気がするのは、コースケが連絡でもしたからだろうか。

「にゃあ」

お帰り。

頭が撫でられ、お腹も撫でられ、腕を握られる。

三人の手。

嬉しいなぁ。

ボクは温もりに包まれている。

あれ、天気雨かな。

外は眩しいのに、温かい雨がポタポタと落ちてくる。

いや、外はもう暗くなっていた筈だから、眩しいくらいに思えるのは三人に囲まれてるからなのかな。

幸せだなぁ。

幸せだねぇ。

……だからご主人サマ、そんなふうに泣かないで。

コースケはオスのくせに泣き虫だなぁ。

タマはきっと、ブサイクになって鼻水を垂らしているよね。

みゃーは……強いみゃー、いつも笑顔のみゃー、泣かせてごめんね。

でもほら、キミ達は祝福されているんだ。

光と温もりに満ちて、ずっとこの先も愛に満ちて。

結婚式が懐かしい。

家族であるキミ達の幸せを見るのは何より嬉しい。

そしてほら、ボクも祝福されているんだ。

眩しくて、光しか見えないくらいだ。

だから泣かないで。


そろそろだよ。


ちりん、と風鈴が鳴った。

「にゃあ」

良かった。

かすれてるけど声が出た。

伝わったかな。

──ありがとう。

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