第62話 よろしく
あたしは今から、最終交渉に
敵は普段は優しいくせに、意外と頑固で融通が利かない。
そしてあたしも、自分が思っていた以上に
「孝介サン」
「なんだ?」
居間で
「庭にある蔵、改造しないっすか?」
「改造?」
「はい。改装、あるいは改築でもいいんす。お金はあたしが」
そんなにお金を持っているわけじゃないけど、これから貰う毎月の給料の七割を払い続けてもいい。
「ダメだ。俺はあの空間が気に入ってる」
「それは、愛を語らう場所として……」
蔵は、三人が結ばれた場所であることは知っている。
以後も、何度か活用してることも。
「いや、読書したりコーヒー飲んだり、一人で落ち着ける場所なんだよ」
「一人で腰を打ち付ける場所っすか……」
「一人でどこに腰を打ち付けるんだよ!」
「でも、余ってる部屋に
「お前だって夫婦の家に住むのは気が引けるだろうが」
それは、無いわけじゃ無いけど、やっとこっちで暮らせるようになったから諦められない。
「だから蔵を改造して住もうかと。トイレとお風呂は借りるっすけど」
「……ちゃんと職場の近くに家を借りろ」
職場は二人の通う大学よりずっと近い。
だからここから通うのも全く問題無い。
「でも孝介サン、町内会長だって、あたしがここに住めば孝介サンの精子高齢化が改善するって」
「町内の少子高齢化だよ!」
「でもでも孝介サン、あたしが近くに住んでると、いいことあるっすよ?」
「なんだよ、いいことって」
「例えばっすね、サバっちを預けて三人で旅行に行ったり、子供が出来た時に色々と手伝ったり」
「いや、サバっちなら隣のおっちゃんちに預けられるし、子供が出来たらみゃーママが来てくれる筈だし」
ちょっとイラっとした。
何故こうもあたしを否定するのか。
「孝介サン!」
「な、なんだ」
「そんなどこの馬の骨とも判らぬ人に預けるより、あたしに預けた方が安心っすよ!」
「おっちゃんはお前より付き合い長いわ!」
隣家のおっちゃんに負けた!?
「そのおっちゃんのことは、なんて呼んでるんすか!」
「いや、おっちゃんだけど?」
「あたしのことは?」
「いろは」
隣家のおっちゃんに勝った!
「ほら! ファーストネーム呼び捨て! そんな親しく名前を呼べる人が、二人の妻を別としてあたし以外にいるんすか? いないっしょ?」
「いや、花凛がいるけど」
「どひゃ!?」
意味の解らない音が口から出てしまう。
「花凛って誰っすか!?」
「ずっと前に、写真で見たんじゃなかったっけ? 結婚式でも会ってただろ?」
写真? 多摩さんが送ってきたやつ?
結婚式? あの司会していた人?
「……あ、委員長みたいな人だ!」
「正確に言うなら、委員長だった人、だな」
知性的な顔立ちと、清潔感のある
写真を見ただけで伝わってくる委員長のオーラ!
実際に見て判ったけど、男子なんて不潔よ! なんて言い出しそうなのに、結婚したら良妻賢母になるタイプ!
澄ました顔でご近所付き合いしながら、夜はベッドで乱れるタイ──
「あいたっ!」
お尻をスパンキング、じゃなくて頭を叩かれた。
「何するんすか!」
「いや、何か良からぬことを考えてそうだったので」
「……あたしも、委員長でした」
「そうだったな」
「委員長として、あたしの負けっす……」
敗北を認めざるを得ない。
こんなにケバくてビッチに見えるのに経験ゼロな私が、清楚で理性的なのに夜は乱れまくる大人の女性に勝てるわけがないっす!
「またおかしなことを考えてそうなのはともかく、別にどちらが委員長に相応しいか、なんて勝負はしてない筈だが?」
「慰めても何も出ないっすよ?」
「慰めてないし、そもそも譲歩を引き出そうとしているのはお前の方だろうが」
敗残兵が譲歩なんて引き出せる
いや、待てよ、勝てるものが一つだけあった!
こうなれば最終手段っす!
「孝介サン!」
「なんだよ」
「あたし、脱げば凄いんっす!」
あたしはブラウスのボタンを外すフリをする。
「お前は脱がんでも凄いわっ!」
「へ?」
「あ、いや、乳魔人だろうが」
「そんな、褒められても」
「別に褒めてないからな?」
「そうでした。孝介サンは貧乳星人だったのでした……」
「残念そうにじゃなく、残念な人そうに言うのはヤメロ」
孝介サンは残念な人っす。
そしてあたしは、もっと残念な人っす。
巨乳なんて男子にイヤらしい目で見られるだけで、何の役にも立たないじゃないっすか!
「……もういいっす。いつかあの二人が子供を産むときに、孝介サンより先に病院に駆けつけて赤ちゃんの顔を見ることくらいしか、あたしに出来ることはないっす」
「地味にダメージのある嫌がらせだな」
「その子供達があたしの職場に通い出したら、お前の父ちゃん包茎短小と言ってやります」
「俺の未来の子供に何の罪が!?」
何言ってんだろ、あたし。
二回目の大学受験に失敗して、保育士の専門学校に入って二年で卒業した。
出遅れたあたしは、これで二人に追いつけると思ったのに。
いや、追い越せた、なんて思っていたのだ。
三月の初めにここにきて、もうすぐ四月になろうとしている。
約一ヵ月の居候生活、楽しかったな。
「……アイツらが卒業するまで」
孝介サンが大きな溜息を吐いてからそう言った。
美矢と多摩さんが卒業するまで、あと一年あるっすよ?
サバっちがあたしの膝の上に乗った。
「幼稚園の就職、おめでとう」
「な、なんすか、いきなり」
「いや、まだ言ってなかったなと思って」
孝介サンは照れ笑いを浮かべる。
「いつか俺達の子供を、いろはに預けられるのは嬉しい」
「べ、べつにあたしは、いい保育士になれるかなんて、まだ判らないっす」
「いろはが幼稚園の保育士で、美矢が小学校の先生で、美月が高校教師なんて、素敵過ぎて笑顔しか出てこない」
美矢のニッコニコのような人を元気にさせるものじゃなくて、人をどこまでも安心させる笑顔を、この人は自覚してないんだ。
「美矢はともかく、美月はお前が説得しろよ」
「え、そんな! 一緒に説得してくださいよぅ!」
この一ヵ月、楽しくて賑やかだった。
それがあと一年続くなら、あたしはこの先どんな困難も乗り越えてみせる。
美矢、多摩さん、そして孝介サン、それから、まだ見ぬ三人の子供達へ。
どうかよろしく。
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