番外編 ─過去と未来と─

第60話 初恋

張り詰めた空気。

私語を許さない雰囲気と、それとは裏腹な午後の柔らかな日差し。

眠気は無い。

他の授業だったら眠っていたところだったが、低く澄んだ声と、厳しい口調がそれを許さない。

いや、そんなことは俺には関係無いのだ。

黒板に書かれる文字は、意外と丸っこい。

立ち居振る舞いとのギャップが素晴らしい。

凛として気高い空気をまといながら、その指先からつむぎ出される文字の可愛らしいことよ。

俺はその一字一字に感嘆し、眠気を覚える暇さえ無いのだ。

他の男どもも変わらない。

アイツも、あそこにいるヤツも、普段は欠伸あくびを噛み殺しながら授業を聞いているくせに、今は先生の一挙手一投足に目を輝かせているではないか。

俺はあせらざるを得ないのだ。

うかうかしていたら、他の男子にけがされてしまう。

あの、ニコリともせず冷たい気配を放つ女神は、恐らく男を寄せ付けずに生きてきた筈だ。

近寄りがたい美しさと、踏み込んではいけない領域。

それらを併せ持つ不可侵の存在に、今、俺は立ち向かう。

「先生」

「何ですか、佐々原君」

俺は知っている。

先生は、質問された時、ほんの微かに嬉しそうな顔をすることを。

不愛想で慳貪けんどん、時に男子をゴミを見るような目で見ていても、その胸の内に秘めたるは、教える喜びと生徒への愛!

「タマちゃん先生の初恋はいつですか?」

少しのどよめきが生まれた後、固唾かたずを呑むような気配が教室に満ちる。

アイツ、終わったなという呟きが、どこかから聞こえてくる。

「それが生物の授業に関係ありますか? あと多摩先生です」

表情は変わらない。

いや、ゴミから汚物に成り下がった気分になるのは気のせいだ。

「せ、生物は種によって発情期、そ、その、種が持つ成熟期みたいなものがありますが、人間にいてのその時期、みたいなものに初恋は関係するのかと思って……」

口から出任せである。

だが、タマちゃん先生は思案顔になった。

汚物からゴミに戻れた俺は安堵あんどする。

「関係ありません」

「いや、でも」

このまま終わらす訳にはいかない。

喰いついていかなきゃ、この女神は全て一言で終わらせてしまうのだ。

「肉体の成長と精神の成長は比例しません。人間が本能だけで生きているのでは無い以上ズレが生じます。それに……」

先生は何故か窓の外に目をやった。

少し遠い目をして、いつもより柔らかな表情に見えた。

「出会いという不確定要素が大きいですね」

なんだ? まるで過去に運命的な出会いがあったかのような発言じゃないか!

ま、まさか入学式のあの時、初めて俺と先生の目が合った瞬間!

な、わけねーよな。

「中学三年生」

「え?」

「高校受験の日が、私の初恋の日です」

さっきよりも大きなどよめきが起きる。

今度はなかなか静まりそうにない。

それにしても……随分と具体的だな。

いつの間にか恋をしていた、では無く、受験の日に特別なことでもあったのだろうか。

何にせよ、その男は許し難い。

きっと中身もないチャラチャラしたクソ野郎だろう。

だがまあそれも過去の思い出。

初恋は実らないものと相場が決まっている。

そしてその相場を崩すのは、この俺だ!

「タマちゃん先生は、俺の初恋の人です!」

どっ、という衝撃波みたいなものが教室に走った。

笑うヤツ、驚くヤツ、まゆひそめるヤツ、それから睨んでくるヤツ。

クラスメートの反応は様々だが……なぜ当の本人のタマちゃん先生は、ひどく冷めた目で俺を見つめるのだろう?

「佐々原君」

「は、はい」

「滝原先生を憶えていますか?」

え? みゃー先生?

その瞬間、小学校時代の、まぶしいような懐かしいような日々が甦ってきた。

あの笑顔と優しさにあふれた日々。

あの、どこまでも走っていけそうな、無限の可能性に溢れていた日々。

「私の記憶では、佐々原伸一という生徒は小学校六年の時に滝原先生にラブレターを渡しています」

「ちょ、なんで──」

「まだ新人だった滝原先生は、そんな純真な子供の心に喜びつつも、傷付けずに対処するにはどうしたらいいかと、それは真剣に悩んでいました」

「え、いや、みゃー先生とタマちゃん先生って……」

「同級生ですが?」

おぅ! なんてこった!

いや、同じ学年だった同級生達が羨ましい!

「で、ラブレターを渡したことのあるあなたが、初恋とはこれ如何に?」

「え? いや、みゃ、みゃー先生には、子供が母性を求めて憧れを抱くような、そんな感じっす!」

「そうですか。ただ、言い難いのですが、私も滝原先生も既婚者です」

「へ?」

どよめきは生まれない。

みんなきょとんとした顔をしている。

でも俺の中には、今日一番の衝撃波が突き抜けた。

みゃー先生は……ショックだけど受け入れられる。

それに言われてみて、確かに既婚者の落ち着きというか、懐の深さみたいなものが思い当たる。

でも、タマちゃん先生のことは信じたくない。

左手の薬指に指輪があるのは気付いていたけれど、ファッションというか、男除けだと思っていた。

そう思えるくらい、所帯じみたところは全く感じられなかった。

「ど、どんな人ですか」

「初恋の相手です」

小首をかしげるような照れ笑い。

教室がどよめいたのは、初恋の相手と結ばれたことになのか、その仕草が可愛すぎたからか。

「イケメンなのー?」

女子のつまらない質問。

「特にイケメンでは無いですね。でも甘えたくなる顔です」

タマちゃん先生が甘えたくなるって、何だよそれ。

「優しいー?」

「彼は優しさで出来てます」

胸が痛い。

恋の痛みというのは、こういうことなのだろうか。

だとしたら俺は、本当の恋を知ったその日に、失恋してしまったんだ。

「タマちゃん先生」

「何ですか、佐々原君」

判り切ったことだけど、俺は最後に一つだけ聞いておきたかった。

「……幸せ、ですか?」

午後の日差しが柔らかだ。

風に揺れて、カーテンの影が日溜りで踊っているみたいだ。

「ええ、とっても」

そう言って頷くタマちゃん先生の笑顔は、まるで日溜りみたいだった。

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