第55話 激怒

二人の学校が始まったことが、理由の一つであったかも知れない。

いや、ちゃんと説明していない俺がそもそもの原因だ。

とは言え、それで美月が許される訳ではない。

どちらかと言えば俺は温厚な性格だし、人に激しい怒りを向けることは滅多に無い。

だから美月を、それどころか他の誰に対しても、こんなに強く怒鳴りつけたのは初めてのことだった。

勿論、手を上げたのも初めてのことだった。


土日の東京通いが四週連続になっていた。

二人が夏季休暇の間は、それでもまだコミュニケーションというかスキンシップが取れていたのだが、大学に行き始めると、土日が三人で過ごす一番大切な時間になる。

土曜は一緒に農作業をしたり、農機具の手入れをしたり。

日曜は家でゆっくり過ごしたり、みんなで野山に出掛けたり。

もっとも、平日だって、それなりに一緒の時間は確保している。

稲刈りも終わったし、時間が取れない訳では無いのだ。

要は、理由を言わずに四週も連続で出掛けたことが問題なのだろう。


美月から電話があったのは、土曜の夕方前だった。

目的の場所の訪問を終え、予約していたホテルに向かっている途中だった。

電車の中で何度か着信があったのは気付いていたが、ホテルの最寄り駅で降りてから掛け直した。

美月は直ぐに電話に出なかった俺をなじったあと、美矢が倒れたと言った。

血の気が引いた俺は、その場にしゃがみ込んだ。

幸い大したことはなく、美矢は病院で検査を受けている最中だという。

ただ、弱気になっているので、早く帰ってきてほしいと切羽詰せっぱつまった声で懇願こんがんした。

俺はホテルをキャンセルし、すぐさま電車に乗り込んだ。

みゃーママにも連絡しようかと思ったが、ちょうどバーへの出勤前でもあるし、状況もはっきりしていないのに無駄に心配させてもいけないだろうと思い、帰ってから電話することにした。

どちらにせよ、明日はみゃーママと会う予定だったがキャンセルしなければならない。


電車は遅かった。

遅々として進んでないように思え、新幹線ですら遅く感じた。

焦っても仕方がないことは判っているが、美矢の気持ちを思うと居ても立っても居られないのだ。

初めて親元から離れて暮らし出したのだ。

気遣いや苦労の連続だったろう。

そんな中で体調を崩した時の不安や、弱気になる気持ちは想像に難くない。

いま、どれほど心細く思っていることか。

きっと青ざめた顔で、震えているに違いない。

あるいはアイツのことだ、俺に対する申し訳なさでいっぱいになっているかも知れない。

地元へと向かう汽車に乗り換え、より遅くなった速度にイライラする。

窓の外は暗く、都会のように街灯もあまり無い。

窓ガラスに映る自分の顔が引きっているように見えて、思わず頬を叩く。

全く状況は違うが、両親の時を思い出してしまいそうになり、頭を強く振る。

俺が気弱になっていては駄目だ。

とにかくアイツの顔を見たら、まずは抱き締めてやろう。


無人の改札を駆け抜け、駅前に停まっているタクシーに乗り込む。

途中の駅からタクシー会社に電話しておいたのだ。

駅から家までは、車だと十分もかからない。

美月からは、問題無く検査も終え、家に帰っているというメッセージももらっていた。

家の前でタクシーを降り、明りが灯っているのを確認すると、何故かひざの力が抜けて座り込んでしまいそうになった。

それをぐっとこらえ、飛び込むように玄関を開ける。

靴を脱ぐ間ももどかしい。

「あれ? 泊ってくる筈じゃなかったの?」

え?

不思議そうな顔をして玄関に顔を出した美矢に、いつもと違った様子は無い。

いや、不思議そうにしているのだから普段通りではないが、想定していたものと掛け離れている。

どういうことだ?

美矢の背後から、ニヤニヤ笑う美月が現れた。

「どうでしたか? 私の迫真の演技は」

そう言い終わるや否や、俺は美月の頬を強く叩いていた。

病気じゃ無かった。

それは本当に良かった。

ああ良かったと胸を撫で下ろし、笑い飛ばしたい気持ちもある。

美月だって、ちょっとした悪戯心、ドッキリみたいな軽いノリで俺に対する不満を発散、というか、少しらしめてやろうという気持ちだったのだろう。

でも、その嘘は、俺にとっては許せないタイプの嘘だった。

「ちょ、こーすけ君!?」

美矢は事情を聞かされていないらしい。

慌てて間に入ろうとするのだが、俺は自分を止められなかった。

「ふざけるなよ! お前達に何かあったら俺は──」

叩かれて呆然としていた美月が、俺に手を伸ばしかけ、はっと何かに気付いたように、それを下ろした。

俺は何故か泣いていた。

怒りで感情が高ぶり、それとは逆に、張り詰めていた神経が安心でゆるみ、どうにも抑えられなくなったのだろう。

涙は次から次へとあふれてきた。

俺はその場にうずくまり、声を押し殺して泣いた。

何だか判らない感情が渦巻いて、頭の中がぐちゃぐちゃになって、どうして泣いているのかも判らなくなってきた。

くそ、これでは美月を叱れないじゃないか。

「……ごめん、ごめんなさい」

背中から美月の声がした。

すがるように背中に顔をこすり付けて、何度も謝ってきた。

きっと、前から手を伸ばす勇気が無くて、後ろめたい気持ちがそうさせたのだろう。

そうか……最初っから叱る必要なんて無かったんだ。

昔の美月なら、こんな叱り方をしたらどうなっていたか。

家を飛び出していたかも知れないし、自室にこもったかも知れない。

最近の美月が子供っぽいのは、素直になった証拠だ。

以前のような虚勢を張ることは無い。

それを成長ととらえていいのかは判らないが、少なくとも俺に対する壁は無くなった。

ならばそれは、成長では無いのだとしても前進だ。

素直な相手には、怒鳴り付ける前にちゃんと言い聞かせれば、理解し受け入れる。

「こーすけ君、タマちゃん」

顔を上げると、美矢があきれたような怒ったような顔をして見下ろしていた。

「二人でお風呂に入って、その汚い顔を洗ってきなさい!」

見れば、美月の顔は涙どころか鼻水まで垂らして酷いことになっていた。

俺の顔も、きっと同じだろう。

二人は、顔を見合わせて泣きながら笑った。

そして考えることは同じだった。

「ちょ、ちょっと!?」

慌てる美矢に構うことなく、俺と美月は美矢を引きずって歩く。

二人で風呂に入るより、三人一緒の方が楽しいに決まっているのだ。



*暫く更新が遅れがちになると思います。

すみません。

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