第44話 あの夏

エンジンを切って軽トラから降りると、夏の雨の匂いがした。

昼間に熱せられた草木と地面が、雨に濡れて溶け出したみたいな濃密な空気。

車には誰も乗っていなかった。

ナンバーを憶えている訳でもないので、この車が委員長のものであるか確信は持てないが、車種と色は一致している。

勿論、同じ色の同じ車なんていくらでもあるのだが、今日が花火大会の日であることを考えると、委員長の車である可能性は否定出来ない。

あれ以降、ここで花火を見てこの場所が気に入ったのかも知れないし、毎年見に来ていることだって有り得る。

何も感傷的なものでなくても、綺麗な花火を見るという理由だけで充分でもある。


俺はスマホの明かりで地面を照らし、雑木林の中へと続く小道に入っていった。

雨は上がったようだが、木々の葉から落ちてくる水滴が頭を濡らす。

こんな暗がりで誰かが近付いてくるのは恐怖だろうと思い、池が見えた辺りで「委員長」と声を出してみる。

が、もし委員長で無かったら、とか、他の誰かと一緒では、とか考えてしまうと大きな声が出せない。

それに、こんなところで委員長と呼び掛けるのも、何だか間抜けなような気がした。

「花凛」

少し大きな声で呼んだ。

もし近くに本人がいるなら、「かりん」と声に出して呼び掛けるのは、十三年前の夏以来のことになる。

ぼんやりと見える池の輪郭。

都会にいると気付かないけれど、空は、曇り空の方が町の明かりを反射して明るい。

「……孝介?」

意外と近くから返ってきた委員長の声。

池のほとりにその影を見つけて、静かに歩み寄る。

「一人で来たの?」

委員長の声は落ち着いていた。

俺が「花凛」と呼び、「孝介」と声が返ってきたとき、俺は一瞬、あの頃に戻ったような気がしたけれど、近付いてみれば、あの頃の委員長とは違うことくらい辺りが暗くても判る。

長かった髪は肩に掛かる程度になっているし、声には、あの頃と違う柔らかさがある。

「三人で来れば良かったのに」

強がりも、嫌味や皮肉も感じられない。

遠い約束への感傷に浸っていた訳でも、十三年越しの願いが叶った訳でもないのだろう。

案外と明るい声に、少し安心する。

暗くて表情はよく見えないが、後ろ手を組む仕草は機嫌のいいときのものだ。

普段は、胸の前で腕を組んで注意してくるイメージが強いけれど……。

「どうしてここへ?」

女性が一人で来るには寂しすぎる場所だ。

しかもさっきまで小雨が降っていたのだし。

「毎年ってほどじゃないけど、ここから見るのがいちばん綺麗だから何度も来てるわ」

「あの夏も?」

ちょっと息を呑む気配。

風は無く、水面みなもは鏡のようだけど、そこにたった一滴ぶんの波紋を描くような変化。

「もしかしたら、駅じゃなくて現地に直接行ったのかなって、念のために来てみたの。背中にドーンと響く音を受けながら、何度も振り返ってここまで歩いてきた。あなたはいなかったけど、これがあなたの言っていた光景なんだなって、上と下に咲く花を見て、ちょっと感動して、ちょっと一人で泣いて……」

「ごめん」

「ううん。だって直ぐに判ったもの」

「何が?」

「すっぽかされた訳じゃないって。だって、あなたって誠実なだけが取り柄だったでしょう?」

からかうような口調。

「うっせーよ」

俺を責めないためにそう言っているであろうことは判るから、俺も軽く返す。

「何? もしかして、十三年間あなたのことを想い続けて約束の場所で待つ乙女、みたいなの想像しちゃった?」

今度ははしゃぐような口調だ。

「男の人って、すぐそういう幻想抱くわよね」

それは否定できない。

でも実際は、お互い淡い恋心を抱いた程度に過ぎない。

何となく、花火が弾ける前に掻き消されたようで、うずみ火みたいな感情がどこかに残ってるんじゃないかって考えてしまった。

けれど、もういい年をした大人なんだ。

時々、昔のことを思い出して切なくなることはあっても、いつまでも過去のことにかかずらってはいられない。

「この十三年間に孝介に色々あったように、私にも色々あったから。恋だってしたし、男性と花火を見たことだってある。ここは、あなたにとっての穴場だから他の人には教えてないけど」

俺にとって、十三年のうち十年以上は何も無かった。

ただ、後ろの二年と少しに、その十年を超えるあらゆるものが詰まっていた。

「まあ九十九パーセントは女友達と見たんだけどね」

委員長は、男運が無さそうだもんなぁ、なんて思って苦笑する。

って、あれ?

「おい、九十九パーセントが女性となら、男は一人に満たないぞ?」

「う、うるさいわね! 女性が複数で男性は一人とか、他の地域の花火大会に行ったりしたのよ! ホント、昔から孝介は細かいんだから!」

ふっ、と放課後の教室が甦る。

委員長がする作業を手伝って小さなミスを指摘したり、読んだ本の内容について話し合って、委員長の解釈の矛盾を追及したり……。

「……結局、花火って一人で見るのが一番いいのよ」

いつの間にか、雨で声をひそめていた虫達が賑やかになっていた。

「どうして?」

「キレーとかスゴーイとか言って騒いで見るより、ずっと胸に迫って、夏が特別なものになるの。ここで見る花火は特に──え?」

一瞬、辺りを照らした光。

ややあって、心を震わせるような音が空に響いた。

「中止じゃ……無かったんだ」

予定より遅れて始まったからか、それを取り戻すみたいに、次から次へと夜空に花を咲かせた。

まるで、あの夏を取り戻すみたいだ。

「やっと見られた……」

それは、ここで、という意味では無いのだろう。

だから俺は、その呟きに気付かないふりをした。

花火に照らされた委員長の頬が濡れていることにも、俺は気付かないふりをした。

あの夏と同じで、やっぱり花火は憎たらしいくらいに綺麗だったけれど、忘れていた夏は、もう過去のものになった。

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