第11話 美矢体験

美矢は早起きのくせに夜更かしする。

美月は早く寝るくせに朝寝坊だ。

いろはは、旅の疲れもあるからか美月よりも早く寝てしまった。

「なんか子供が二人もいるみたい」

美矢はクスっと笑みをこぼして、寝入ってしまった二階の二人を見るみたいに、天井に優しい目を向けた。

本当に母親のような風情を漂わす。

いろはを歓迎する豪勢な料理と、食べ散らかされた食事の後片付け。

家事は勿論のこと、この一ヵ月、美矢の成長というか、大人っぷりには驚かされることが多かった。

たぶん、一緒に暮らすということ、田舎に住むということ、大学生になるということ、そういったあらゆることに対しての覚悟が、美矢をそうさせたのだろう。

ねぎらってやりたいとは思っていた。

「こーすけ君、コーヒー淹れようか?」

でも、労おうとしてくる。

田舎の夜はとても静かで、黙っていると聞こえてくるのはかえるの鳴き声くらい。

心地良くもあるが、ちょっと寂しくもあるから、こんな夜更けには一人ではなく誰かとコーヒーが飲みたくなる。

「蔵でコーヒーを飲まないか」

一緒にコーヒーを、と言うよりは、人恋しくなるのかも知れない。

ついこの間まで、たった一人で過ごしていたのに、こんな賑やかなヤツらと生活しだしたら、もう一人には戻れそうにない。

「蔵で?」

「ああ。掃除のチェックをしてもらって、それから……まあ、秘密基地みたいでちょっといい感じだから」

「うん、判った」

母親とは違って、恋人の笑顔になった。


「わぁ、秘密基地だ」

裸電球で照らされた蔵の内部を見て、美矢は少女の顔になった。

夜に蔵に入るのは初めてなのだろう。

コーヒーが零れないように、そろりと梯子はしごを上る。

気温は低く、コーヒーカップから立ち上る湯気の白さが際立つ。

壁にもたれ、二人並んで座ると、どこか隔絶された世界にいる気分になった。

昼間のうちに毛布を運び込んでおいたので、二人の脚をそれで覆う。

「遭難して山小屋で一夜を明かす気分」

考えてみれば、一緒に暮らし出してから、こんな風に二人きりになるのは初めてかも知れない。

自然と、肩と肩が触れ合った。

寒さから逃れるためじゃなくて、心の距離の近さに、身体の距離が追い着こうとするみたいに。

目と目が合った。

照れ臭さを誤魔化すみたいな、悪戯っぽい笑みを交わす。

唇を重ねるまで、時間はかからなかった。


その先への躊躇ためらいが、二人に無かったわけじゃない。

許しを必要とするものでは無いのかも知れないが、選択権があることが俺を苦しくさせていた。

けれど、いろはが昼に言っていた言葉は、俺にとっても美矢にとっても、免罪符として作用してしまった。

何より、お互いずっと抑圧されていた欲望は、肌が触れてしまえば後戻りすることは難しかった。

「いいの?」

それでも問い掛けてくる美矢の言葉に、俺は返事をしたのか自分でも判らない。

その後の、

「でも」

という譫言うわごとのように呟く言葉にも。

母親のような顔、大人の顔、そんなものよりも、恋人の顔、歳相応の顔をさせてやりたい、そんな思いで髪を撫で、その肌に触れた。

美矢の息遣い、声、匂い、体温。

それら全てを感受する。

俺は何を与えられるだろうか。

声は届いているだろうか、温もりは伝わっているだろうか。

欲望とは何を意味するのだろう。

何も知らず思い描いていたそれとは、随分と勝手が違った。

ドロドロとした、あるいは自分本位な、そんなものとは大きく異なっていた。

ああ、そうか。

欲するとは、望むとはこういうことなのだと、頭のどこかで理解する。

自分本位では決して叶わない、初めて味わう感覚だった。

それは、お互いが共有できる限界を探る行為だ。

美矢の表情が変わる。

母性を宿したような大人の顔から、歳相応に怯え、甘えたものになる。

体温は分け合えるだろうか。

感覚は同調できるだろうか。

痛みは分かち合えるだろうか。

二人が一つになりたいと欲したとき、何をどこまで共有できるだろうか。


まるで、欲望という言葉とは相反する行為だ。

美矢は俺に与えようとし、俺は美矢に与えようとする。

与えることにも与えられることにも悦びを感じ、その先にある溶け合うような感覚を目指そうとする。

美矢が笑った。

俺も笑顔を返す。

愛情というものが呼応するものであるなら、この瞬間がそうなのだろう。

それはもはや、崇高な儀式にさえ思えた。

親も、そのまた親も、遥か昔から延々と繰り返されてきた生命の営みを経て、この世に生を受けたのだ。

そうやってつむがれてきた命の先に、俺と美矢がいる。

そしてその先にまた──


断続的に漏れる美矢の可愛らしい声が、苦しげにも聞こえるようになってきた。

美矢が俺の背中から手を離し、自分の口をふさぐ。

「ごめん、ごめんね」

手のひら越しに発せられる声。

どうして謝るのか解らない。

解らないのに、それは俺を陶然とさせる。

指先が、唇が、目も鼻も耳も、全ての感覚が美矢を求めて鋭敏になっていく。


美矢が何度も俺の名前を呼ぶ。

俺も何度もその名を呼び返した。

意味が無いようでいて、それはとても大切なことだった。

精神の繋がりさえも求める呼び掛けだった。

まるで酩酊めいていしていくような感覚の中で、輪郭がぼやけ、境界があやふやになって、やがては混ざり合えるのだとさえ信じられる。

「好き」と言われ「好きだ」と返す。

言葉を発する唇と、感情を宿す瞳と、心と身体と、全てが裏表を失くし、そして全てをさらけ出す瞬間が訪れた。


俺は上手くやれただろうか。

初めてだからとか、技巧の話ではなく、俺は上手く伝えられただろうか。

大切にも乱暴にも扱い、愛しさも激しさもぶつけたけれど、美矢は受け止めてくれただろうか。

ただ、その瞬間には確かに幸せと、何か言葉に出来ないものを共有する悦びがあった。

「ありがとう」

美矢は笑った。

労うような、また大人びた笑顔をさせてしまった。

美矢があどけない笑顔を見せてくれたのは、俺の胸の中で寝入ってからだった。

その笑顔を見て、俺はやっと満ち足りた思いで眠りに就いた。

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