第7話 先か後か

田圃たんぼの水入れが始まった。

田植えをする前のこの時期、水が張られたばかりの田圃は鏡のように空を映し、そこかしこでかえるが一斉に鳴き出す。

「おおっ」

「冷たーい」

昨年、美矢は田植えを手伝ってくれたが、美月は未経験だ。

予行演習などと言って、高校時代の体操服を着て田圃の中に足を入れる。

「これで私も農業をマスターしました」

農家の方が聞けば激怒しそうなことを言う。

実際のところ、ほとんどの田圃は機械で田植えするが、山裾やますそにある歪な形の棚田などは今でも手作業だ。

そういった場所では二人にも手伝ってもらうことになる。

「孝介さん孝介さん」

「なんだ?」

「足が泥に飲み込まれていく感覚が、気持ち悪くて気持ちいいです」

まあ判らないでもない。

美月はその泥と水の感触を味わっているが、美矢は小鮒こぶなでも見つけたらしく、腰をかがめながら泥の中をずんずん歩いていく。

「孝介さんにお口を蹂躙じゅうりんされたら、同じような気持ち悪くて気持ちいい感覚を味わ──痛っ!」

頭を叩くのはもはや日課だ。

何にでも下ネタに絡めてきやがるが、口を蹂躙されたら気持ち悪いだけで気持ちよくは無いんじゃないか?

「孝介さん」

「なんだ」

「この一年、農業で筋力が付いたのでは?」

「ん、そうかもな」

コイツはまた、筋肉を下ネタに絡める気だろう。

「出来れば力を加減してもらえると助かります」

え?

美月は頭をさすっていた。

あ──

「すまん!」

慌てて美月の頭を撫でる。

「このままでは、あなたの美月はパンチドランカーになってしまいます」

「いや、ホント気を付ける」

「なるべくならお尻を叩いてもらえれば」

そう言って小振りのお尻を向けてくる。

胸は美月の方が大きいようだが、お尻は美矢の方が大きい。

それはともかく──

ふりふり。

もしかして、これが美月なりの誘惑だったりするのだろうか?

これくらいなら、試しに乗ってやってもいいか。

ぽんぽん。

「きゃ」

珍しく美月が甲高い声を出す。

と同時に身体のバランスを崩し、前のめりに倒れそうになった。

「っと」

咄嗟とっさに出した右腕で抱き止める。

農業できたえた俺にしてみれば、美月の身体など軽い軽──柔らかい!?

さっきお尻を叩いた時も意外と柔らかいものだと驚いたが、いま手のひらが触れているそれは、「ケツとは違うのだよケツとは!」と嘲笑あざわらうかのような柔らかさで俺を愕然とさせた。

チチとケツの勝負は、少なくとも触感にいてはチチの圧勝に終わった。

ていうか、

「ノーブラ?」

「っ!?」

一瞬、腕の中で身を固くした美月は、必要以上にまばたきを繰り返しながら俺を見た。

「ま、まんまと私の術中にまりましたね」

「顔を真っ赤にして言うセリフかよ」

「そ、想定内ですが?」

痛々しいほどの強がりだ。

俺は女性に免疫が無いのは確かだが、美月だって男性に免疫は無いだろう。

歳の差は十二年。

だとしたら当然、年上である俺の方が余裕があるわけだ。

たとえ手のひらに、脳を焼き切るような甘美な柔らかさを感じていたとしても、そんなものは大したことではない。

「どうして歯を食いしばっているのですか?」

……まあ、辛勝といったところかな、うん。

「それはともかく」

俺は美月の身体の安定を確認し、手を離す。

「あ」

まるで名残惜しむように、美月は俺の手を目で追った。

わざとらしい誘惑よりも、そういった小さな仕草に男はそそられるのだ、などと知られてはいけない。

「場所にこだわりはあるか?」

「場所?」

「その、初体験をする場所だ」

美月はポカンと可愛らしく口を開けてから、周囲を見回す。

「遠くを走る車が見えます」

「ああ、そうだな」

「約五十メートル先でこちらをにらんでいるみゃー以外、人影は見当たりませんが」

「そ、そうか」

「さすがに、この青空の下は上級者向きでは?」

「いや、ここでする訳じゃなくて、理想の場所や雰囲気があるなら聞いておきたいだけだ」

また顔を赤くした。

振り向かなくとも、背中に突き刺さるような美矢の視線を感じる。

「……誰にも邪魔されないなら、どこでも構いませんが?」

ホテルのスウィートルームとでも言い出すかと思ったが、伏し目がちにいじらしいことを言う。

「判った。明日かも知れないし半年後かも知れないが待っていろ。但し、経験しても美矢には言うな」

「え?」

「今から美矢にも同じことを言う」

「……つまり、初体験を口にしないことで、お互いどちらが先であったかを判らないようにしろということですか?」

「そうだ」

「……待ってます」

どこかが痛いような笑顔を浮かべて、美月はそう言った。


「こーすけくぅーん」

美矢の傍に行くと、珍しく甘えた声で俺の名前を口にする。

美月よりも大人だと思っているが、コイツは色々と溜め込んで爆発する可能性がある。

「えっとね」

悪戯っぽい視線で俺を見る。

きっと蛙が服の中に入っちゃったとか言い出すに違いない。

誘惑に関しては、美月よりも子供な可能性がある。

「服の中にカブトエビが入っちゃった! 取ってぇ!」

カブトエビときた!

想定外だ!

つーかカブトエビは跳ばないし飛ばねーよ!

どうやって服の中に入るんだよ!

カブトエビもとんだ冤罪えんざいに戸惑うわ!

「あれ? どうして冷めた目なの? マンガだとドキドキしながら服の中に手を入れるか、あたふたしてたよ?」

漫画と現実は違うのだよ、美矢。

「もしかして……タマちゃんと何か契約しちゃった?」

あー、もう、いつもニッコニコのお前がそういう顔をするのはズルイ。

俯き加減に体操服の裾を握り締めて、ちらりと俺を窺い見るその表情。

「今から美月に言ったことと同じことを言う」

上目遣いでこくりと頷く。

「初体験の場所に拘りはあるか?」

「こーすけ君の本能のおもむくままに」

……今すぐにでも受け入れ態勢に入りそうだ。

「いや、いちおう俺も考えて行動するが……体験しても美月には言うな」

「え?」

「どちらが先か判らない状況を貫く」

「……私、後でいいよ? そんなことしても疑心暗鬼になっちゃうし、お互い様子を窺ったり行動を疑ったりするのはイヤだし……」

「いや、でも、昨日もあんなに争ってたじゃないか」

「うーん、競ったり切磋琢磨するのはいいの。ジャンケンで白黒ハッキリつけるのもいいの。でも、お互いが足を引っ張りあったり疑ったりするのはイヤ」

……そうだよな、美矢はこういうヤツだ。

だから美矢が俺の提案を受け入れていたとしても、俺は美月を先に選ぶつもりでいた。

「なんか……困らせちゃってゴメンね」

美矢はそう言って、いつものようにニッコリ笑う。

こんな幸せな悩みで困ってる男なんて、世の中にそうはいないんだけどなぁ。

ただ、先とか後とか関係無く、美矢を精一杯愛そうと決めた。

いや、そんなことは最初っから決まっていることだけれど……。

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