第5話 春のひととき

それは、俺のちょっとした一言から始まった。


暖かな日で、春の陽射しが柔らかに降り注ぎ、どこからともなく飛んできた桜の花びらが庭に舞っていた。

午前の農作業を終え、昼飯を食べに家に戻った俺は、その春のうららかな陽光に輝く、一枚の花びらのごとき落下物を目にしたのである。

いや、待てよ。

果たしてこれは、本当に一枚と数えるのだろうか?

もしかしたら一着と数えるのが正しいのかも知れない。

不安になった俺は、ポケットからスマホを取り出し、「パンツ 数え方」と入力して検索する。

うむ、一枚で正しかったようだ。

俺は深く安堵あんどの息をついた。

それはまるで、この生命力に満ちた春の息吹きを深く味わい、満足げに漏らした吐息のようであった。

足下に落ちた洗濯物は、せっかく洗われたというのに地面に触れてしまったわけであるが、ピンク色のそれは、まるで春を謳歌おうかしているようにも見えた。

なるほど、洗濯バサミや物干し竿ざおなどといった呪縛じゅばくから逃れ、お前は一時いっときとはいえ、春の風に乗って空を舞ったのだな。

そして今も、地に伏してしまってもなお、散った桜の花びらが美しくあるように、お前もまた美しく春を体現している。

いや、あっぱれと言わざるを得ない。

しかし、美しいものははかないというのが世の常である。

このまま野晒のざらしにしておけば、やがて土にまみれ、その鮮やかな桜色は見る影もなく色褪いろあせてしまうだろう。

そんな姿になったお前を見るのは忍びない。

それに何より、お前が本当に美しくあるのは、その持ち主が身に着けているときなのだから。

ふっ、と俺は笑みを溢した。

なんと喜ばしいことではないか。

この春という輝きに満ち溢れた季節よりも、もっと美しいものが身近に常に寄り添っている。

俺はその幸せを深く噛み締め、地に伏しているお前を拾い上げた。

お前は、お前のあるべきところへ帰るのだ。

と、ここまではよかった。

何の問題も無かった。

俺は縁側から家の中に声を掛けた。

何気ない、ちょっとした一言だった。

「おーい、みゃ……美矢のパンツ、落ちてたぞー」

しばらく返事は無く、鳥のさえずりと、春の風が起こす微かな葉擦はずれの音だけが聞こえた。

ややあって、妙に表情の無い美月が顔を出した。

「ああ美月、これ、美矢に」

「……」

「どうした?」

美月の表情は、無表情というより、冷めた目で見下ろすような気配があった。

いや、実際、庭にいる俺より、縁側に立つ美月の目線は高いのだが。

美月は、その冷めた目と同じような声色で言った。

「どうしてそれがみゃーのものだと?」

……へ?

一陣の春の風が、庭を吹き抜けたような気がした。

その一言は、今まで俺自身が疑問とすら思っていなかった疑問を突き付けてきたのだ。

例えば人は無意識で呼吸する。

どうやって呼吸しますか、と問われても、そんなことを疑問に思ってもいなかったように。

そしてそれは、多くの人が答など持ち合わせていないように、俺も答にきゅうしたのだ。

改めて、手にしたパンツに目を向ける。

俺は果たして、美矢がこれを身に着けていたのを目にしただろうか?

いや、目にしていたとして、そんなこと一々憶えているだろうか?

俺がいぶかしく思いパンツを見る目と、美月が俺を見る目は似ていた。

だが、それは似て非なるものだ。

純粋な疑問と、侮蔑の混じった疑問。

そこには天と地ほどの開きがある。

「美月、聞いてくれ」

そうは言ったものの、そもそも答を探しあぐねている俺に、いったい何が言えよう。

敢えて答を口にするなら、春のいたずら、とでもしか言いようがない。

「春のいたずら」

口にしてみた。

声に出したそれは、春を寿ことほぐ言の葉であった。

「バカですか?」

冬の凍てつく寒さを思わせる言葉が返ってきた。

不意に日がかげり、ついさっきまでの微睡まどろみを誘う暖かさが嘘のように霧散する。

儚い春のうたげは終わったのだ。

「少しそこで待っていてください」

美月はそう言って、家の奥へと姿を消す。

待つ間、俺は手に握り締めていたパンツを再び観察した。

先程まではでていたのであるが、今は観察である。

これが美矢のものであるという答を導き出したその理由、俺はそれを見つけねばならない。

もしかしたら、二人の好みの違いなどがデザインから読み取れるのかも知れない。

だが、自分の記憶と照らし合わせてみても、瞬時に所有者が判別できるほど、二人の下着を知悉ちしつしているわけでは無いのである。

美月が戻ってきた。

隣に美矢を従えていた。

「こやつめが、みゃーのパンツを見てポエマーに」

さりげなく真実を見抜かれていた俺は驚嘆きょうたんする。

そこに春を見出していた俺の感性を暴いた美月は、あるいは同類といえるのではないか。

そう言えば美月は、かつての俺の部屋で、お互いの趣味嗜好を確認し合った仲ではなかったか。

「美月、判るだろ?」

俺は一縷いちるの望みを託して言った。

「バカの考えることなど判りませんが」

「いや、でも」

「一目見てパンツの持ち主を言い当てるなんて芸当が可能なのは、愛情過多の変態さんで間違いないです」

ああ、俺にはまだ活路が残されていたようだ。

愛情過多、そのように受け止めてもらえるなら、変態のそしりも甘んじて受け入れよう。

だが、そのような崇高な精神も、美矢の一言が打ち砕いた。

「私のパンツ、タグに名前書いてるよ?」

え?

よく見ると確かに、タグのところに「みゃー」と書いてある。

「タマちゃんと似てるの多いから、洗濯でごっちゃになっちゃうし」

……もしかして、無意識的にこの文字が目に入っていた?

そう言えば最初、みゃーのパンツと言い掛けたのはそのせい?

ていうか、

「小学生かよっ!」


 

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