第2話 正妻は強し

我が家には鍵のかかる部屋は無い。

そもそもドアではなくふすまばかりだ。

唯一、ドアで鍵がかけられるのはトイレだけで、風呂場だって引き戸である。

朝、目が覚めると布団の中に美月が潜り込んでいた。

あったかくて柔らかくていい匂いがする。

叩き起こそうかとも思ったが、あまりに気持ち良さそうに寝ているので、そっと布団から出る。

まだ外は薄暗い。

階下に降りると美矢がご飯ごしらえをしていた。

さすが正妻、夫よりも早く起き、快適な朝を迎えさせてくれる。

「おはよう、こーすけ君」

何より、笑顔でそう挨拶してくれることが、寝起きの気怠さをどこかへ追いやってくれる。

「よく眠れた?」

「ああ。美矢は?」

「私はサバっちと寝てたんだけどね」

……何か含みのある物言いのような。

「やっぱりこっちは寒いもんね。人肌恋しくなるよね」

美月が俺の布団に潜り込んでいたことは、既に知られているようだ。

「ということで、タマちゃんは朝食抜き。二人で食べることにします」

「り、了解」

まあ、どうせ放っておいたら昼前まで寝てるだろうし。

「じゃ、ご飯出来たから、ちょっと待っててね」

美矢は仏壇にお供えを持っていく。

なんて出来た嫁なんだろう。

実の息子でさえやっていなかったことをしてくれる。

「ではでは、いただきます」

「いただきます」

ご飯と味噌汁、卵焼きに納豆と鮭の切り身。

朝食の定番だが、果たしてこの定番のはずの朝食を食べたのはいつ以来か。

「なーっ!」

何か奇声を発しながら、階段を駆け下りてくる音がする。

思ったよりお早いお目覚めだ。

「ご飯!」

「無いよ?」

たった一言のやり取りで、勝敗は決した。

美月はその場にへなへなと座り込んだ。


縁側に座って二人と一匹が日向ぼっこをしている。

まだ肌寒いが、二人は肩を寄せ合い、仲睦まじくお喋りの最中。

「お腹が空きました」

「お昼はこーすけ君が採ってきたフキノトウね」

「苦いのやだぁ」

……まだ嫌がらせは続いていた。

「昼はどこか食べに行くか?」

「あら孝介さん、無職なのですか?」

菜の花の収穫などはあるが、田圃たんぼを耕したり肥料を撒くのは終わっている。

田植えのための苗は、おっちゃんのビニールハウスで生育中だ。

とはいえ、休んでいるのはお前のためでもあるというのに。

「昼食も要らんようだな」

「なっ!?」

「じゃあこーすけ君、二人で行こっか」

「朝ちしてたの黙ってあげてたのですが」

「なっ!?」

思わぬ攻撃手段を隠していやがった。

「タマちゃん!」

あれ? 美矢の非難対象が俺では無い?

「は、はい!」

「晩ご飯も抜きにするよ?」

「嘘でした! 腰抜けのフニャチン野郎でした!」

「よろしい」

よろしいのか!?

「こーすけ君」

「ん?」

「本番は大丈夫?」

……なんで心配されてるんだろう?

いや、まあ、童貞だから不安はあるけど。


軽トラでは二人しか乗れないので、おっちゃんちの車を借りる。

おっちゃんちは軽トラ二台とセダンが一台あって、普段使っているのは軽トラ一台のみだから、他は好きな時に使ってくれていいと言ってくれた。

「私が運転していい?」

免許取りたての美矢が目を輝かせる。

「私の運転技術をとくと見るが──」

「黙れ無免が」

美月は免許を持っていない。

「このエア免許証が目に入らぬ──」

「見えねーよ!」

いろはちゃんを含めた三人で一緒に教習所に通い、一人だけ卒業出来なかった少女。

なんでも、教官がさじを投げるほどの下手っぷりだったようで、教習コースですら脱輪しまくり、コイツを路上教習に出してはならない、いや、世に放ってはならぬ、ということで、仮免許すら与えられなかったという伝説の持ち主だ。

美矢はタイヤやライト類のチェックをして初々しい。

ボンネットまで開けて、ブレーキオイルやバッテリー液まで確認して頼もしい。

「ホイールカバーを外さないとブレーキパッドの減り具合が」

「大丈夫だよ!」

なんつー極端な二人だ。

美月は既に後部座席でふんぞり返っているし……。


「出したまえ」

美月の独り言は無視して美矢は自分のタイミングで車をスタートさせる。

なかなか堅実で安心できる運転だった。

借り物の車だし、通行量の多いところでは運転を代わるつもりでいたが、任せても大丈夫そうだ。

「麺類でいいかな?」

「ああ。ていうか、目当ての店でもあるのか?」

「ほとんどのお店は国道沿いに集中してるし、引っ越してくる前に地図を見て勉強してたから」

なんという安定の正妻感。

「朝食抜きの私は、麺類より肉々しいものが──」

「お前に発言権は無い」

「とほほ」

何だか懐かしい言葉を呟く美月は可愛らしくはある。

「タマちゃんも農作物の勉強とかしてたよ」

ちょっと可哀想に思ったのか、美矢がフォローを入れる。

なんという余裕の正妻感。

「ふふふ、野菜も好きですことよ」

……コイツ、食べることしか考えてないんじゃないか?

「くふふ、生産者と運転手兼料理人のいる生活」

「む!」

「あ?」

美月の呟きに、美矢と俺は即座に反応した。

「美月、お前は今から居候いそうろうの立場な」

「なっ!? せめて専属の娼婦で!」

「却下だ」

「……ごめんなさい」

半分冗談だと判ってはいるのだろうが、少しシュンとする。

バックミラーを見た美矢が、まるで母親のような笑みを浮かべた。

ミラー越しに、美月の表情を見たのだろう。

「タマちゃん、一緒に奥さん頑張ろうね」

ああ、正妻は強し。

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