第9話

 河合老人がガラスの扉を開けて、取り出してくれた。

「綺麗な時計だろ? 私もこの懐中時計がお気に入りなんだ。昔フランスのパリに旅行をしたとき、シャンゼリゼから少し入ったところのアンティークショップで見つけたもので、結構高価だったけどどうしても欲しくて買ってしまった」

「へえッ。でもぼくにもこれが高いということがわかります」

 金太は、その後も背を伸ばしたり腰を屈めたりしながら飾り棚のなかを一生懸命に覗いた。

「旦那さま、お昼のご用意ができました」

 いつの間にか飾り棚の近くまで来ていた君代さんが声をかけた。

「ああ。さあ金太くん、お腹が空いたろう、君代さんがお昼を拵えてくれたから一緒に食べよう」

 老人のあとについて行くと、今度は10人は座れるテーブルの置かれたダイニングルームだった。天井からはクリスタルのシャンデリアが下がり、窓の両側には白いレースのカーテンが束ねられてある。

 君代さんが小走りで入ってきて目の前に置いたのは、涼しげなガラスの鉢に入った素麺だった。それとは別に薬味の入った小鉢が5つほど並んだ。

「ごめんよ、こんなものしかなくて。金太くんには物足りないかもしれないが、年寄りの私にはこれくらいのものしか食べられないんだよ。今度金太くんが遊びに来るときにはもっと違うものを用意するからね」

 河合老人は薬味の生姜やシソをつけ汁の器に入れながらいった。

「いいんです、ぼく素麺大好きですから」

 金太は気を遣ってそういったのだが、正直なところ素麺と冷や麦の違いがよくわからなかった。

「そうかい、だったら遠慮なくたくさん食べなさい。君代さんにいったらどれだけでも作ってくれるから」そういっておいしそうに素麺を啜った。「そういえば、もうそろそろ夏休みなんじゃないのかい?」

「はい、あと1週間で夏休みです」

「夏休みには家族でどこかに行くのかい?」

「いいえ、いまのところは。お姉ちゃんも大学受験の準備があるし、ぼくは来年高校の受験があるので、おそらくどこにも行かないと思います」

 金太は河合老人の言葉になにか思い出したのか、ふと箸の手を止めた。

「そうか、大変だね。受験が控えてるんじゃ夏休みもうかうか遊んでられないよな。それじゃあ、勉強に疲れて気分転換したくなったらいつでも遊びにおいで――自分の家だと思って」

 素麺をすっかり食べ終わると、河合老人は箸を置きながらいった。

「本当ですか?」

 金太はこれまでとはまるで違う異空間に足を踏み入れたような錯覚をすると同時に、あの飾り棚のなかにある映画やテレビで観るようなワクワクするアイテムをもっとゆっくりと見たいと思った。

「本当だよ。さっきもいったように、この家に私ひとり、いや君代さんもいるけど、全然気を遣わなくてもいいから。むしろ金太くんがこの家に遊びに来てくれたほうが生活に変化ができて楽しいよ」

「わかりました。休みがはじまったら遊びに来ます」金太は喜んだ。

「そうしてくれたまえ。私もきみが来るのを楽しみにしているから」

 食後のデザートを食べながら30分ほど雑談を交わした金太は、丁寧にお礼をいって辞去することにした。玄関まで見送りに来た河合老人は、スニーカーを履き終えた金太に手提げ袋を渡した。

「これもらいものだけど。ひとりで食べきれないから、家に帰って食べておくれ」

 袋にはマスカットが一房と、大きな梨が3つ入っていた。ずしりとした感触が伝わった。

 土産までもらった金太は、後ろ髪を引かれながらも、夏休みになってからの楽しみができたことの充実感を抱きながら自転車のペダルを踏んだ。

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