第3話
とっておきの木陰に腰を降ろし、池の水を洗面器にすくうと、いつも使っているマッシュの餌を入れ、額の汗を拭いながらこねはじめる。頭上から胴間声のようなアブラ蝉の鳴き声が忙しなく降りそそいで来る。少しこねたところでいつもの場所に投げ入れる。魚を呼び寄せるためだ。そしてまた丁度いい硬さになるまで水面を見ながら手のひらを使って捏ねた。
釣り針に銀杏ほどの大きさの練り餌をつけると手首を返すようにして振り込んだ。真夏の青空が移りこんだ水面に、気怠げにウキがゆっくりと起き上がると、微かに水面に水輪ができた。黄色、赤そして黒色に塗られた塗料がゆっくりと浮沈を繰り返す。金太はそのまったりとした動きがなんともいえず好きだった。
しばらく水面に顔を出したウキを凝視していたとき、ふいにウキの頭が水面下に消えた。反射的に金太は手首を返す。右腕に手応えを感じると同時に、水中で抗う魚の
(やったァ、これはこれまでにない大物に間違いないゾ)
金太はゆっくりと竿を立てゆっくりと獲物を引き寄せる。喜びのあまりこれまで何度も失敗した経験がある。2度と同じ過ちを犯したくなかった。
自由を失われた獲物は、水中であらん限りの力で抵抗する。しかし、竿先の弾力がそれを吸収すると、獲物はたまらず水面まで引き上げられてしまうのだった。波紋が予期せぬほど大きくなり、いくつも陽光を撥ね返したあと、やがてすべての方向に広がって行った。水面で銀色の腹をくの字にしたとき、きらりと夏が見えた気がした。
30センチ以上もある大きなヘラブナだった。金太は心を静めながらゆっくりと竿を引き寄せる。岸に近づいたときには、力尽きたらしくヤツは大人しく横になったままだった。
これまで数え切れないくらいこの池でコイやフナを釣ったことがあるが、こんなに大きなのははじめてだった。
金太は口にかかった針を外してやると、両手で重さを確認してからそっと池に返してやった。ヘラブナはしばらく横になったままじっとしていたが、思いついたように1度尾鰭で水面を叩いたあと深みに沈んで行った。
金太が池の水で手を洗っているとき、突然背中のほうから声がした。
「ぼく、いまのは大きなヘラブナだったね」
金太が振り向くと、白いパナマ帽を被り、ステッキを持った老人が立っていた。強い夏の逆光が顔を見えなくしている。
「はい。こんな大きなのは生まれてはじめてです」
嬉しそうに声を弾ませて老人に返事をする。
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