第4話 

 血の池地獄に5人はやって来た。巨大なピラニアが現れた。1号は猟銃を撃ったがピラニアはびくともしなかった。

「下手くそだな?リーダーなんだろ?仮にも」

 3号は苛立ち気味に言った。

 ピラニアは岸辺に近づいた。

 3号がグレネードランチャーをぶっ放した。ピラニアはバラバラに砕け散った。

「やるじゃない?今度から3号がリーダーになったら?」

 5号に褒められて3号は嬉しそうだった。デカい乳でパイずりされたいと3号は強く願った。

 2号は血の池地獄に飛び込んだ。バシャンッ!ブクブクと煮立ってる。

「熱くねーのか!?」

 3号が叫んだ。

「俺には体温がないYO♪」

 ラッパーの2号はノリノリだ。

 3号は生前、アカウント・スーパーバイザーを目指していた。広告代理業の際、広告主の意向にそって監督指導するのが仕事だ。

 だが、『アッパーズ』って組織に妨害されて夢は叶わなかった。

 2号が戻って来た。『室』の玉を手にしていた。

 5人は室町時代へとタイムスリップした。

 3号は歴史に詳しかった。

 室町時代といえば、1333年の鎌倉幕府滅亡後に開始した後醍醐天皇の建武の新政は、恩賞や所領をめぐる不満や混乱によりすぐに崩壊のきざしを見せ始めた。諸国の武士達の衆望は、清和源氏の嫡流である足利尊氏に集まるようになり、後醍醐と尊氏の対立関係が深まっていく。1336年、尊氏は後醍醐を退位させ、北朝の光明天皇を擁立し、幕府を開いた。2年後には征夷大将軍の宣下を受ける。後醍醐は京都を脱出して大和国の吉野に南朝を開き、内乱が長期にわたって繰り広げられる。


 南朝方は楠木正成・北畠顕家・新田義貞ら武将があいついで敗死し、1339年には後醍醐が没する。その後、顕家の父北畠親房が南朝を背負って立つが、各地の武士の勧誘も不調で、その勢力は河内の楠木正行、九州の懐良親王などわずかなものとなった。1348年には正行が高師直率いる幕府軍に敗死。師直は吉野の行宮を焼き払い、南朝はさらに奥地の賀名生に逼塞する事態となる。


 ここに内乱の帰趨は決したかに見えたが、幕府では翌1349年に政務を執ってきた尊氏の弟直義と軍功の著しい将軍執事高師直の対立が起こり、やがて守護や諸国の国人が尊氏・師直派と直義派の二派に分かれる全国規模の抗争に発展する(観応の擾乱)。当初は直義が優位に立ち、師直は1351年に直義派の上杉重季によって殺害される。しかしその後、尊氏が直義派の切り崩しを行ったことにより形勢が逆転し、翌1352年に直義は伊豆で降伏。浄妙寺境内の延福寺に幽閉され、その後急死した。その後も争乱は続き、南軍は京都に侵攻して北朝の崇光天皇を廃立し、光厳・光明・崇光の三上皇と皇太子直仁親王を拉致している。九州や中国地方では直義の養子である直冬が勢力を拡大し、山陰の山名氏とともに京都に攻め上るなど、反幕府方の抵抗が続いた。


 15世紀、朝鮮半島南部に三浦と呼ばれる日本人居留地が存在し、宗氏を始めとする西日本諸勢力は三浦を拠点に朝鮮に通交をしていた。朝鮮にとってこうした通交は多大な負担であり、次第に制限を加えていった。それに対し宗氏にとって通交の制限は受け入れられるものではなく、両者の間に確執が生まれた。また三浦居住の恒居倭の増加に伴い様々な問題が生じ、朝鮮は恒居倭に対し強硬な姿勢で臨むようになった。こうした中で蓄積された日本人の不満は、1510年に三浦の乱という形で爆発するが、朝鮮に鎮圧された。その結果、三浦居留地は廃止され、通交も大幅な制限を受けることになり、宗氏は偽使の派遣や、通交権の対馬集中といった活路を模索することになった。

 

 中世東アジアにおいて前期倭寇と呼ばれる海上勢力が猛威を奮い、朝鮮は討伐・懐柔・室町幕府への鎮圧要請など、様々な対応を余儀なくされていた。朝鮮は農本主義を国是としており、本来なら、国内で産出することの無い必要最小限の物資の入手を除けば、外国との交易を必要としていなかった。しかし倭寇沈静化を図り、通交権をもって西日本諸勢力から倭寇禁圧の協力を取りつけ、また倭寇自体を平和的通交者へと懐柔していった。特に対馬は倭寇の一大拠点と目されており、対馬守護であった宗氏に対してもこうした協力が要請され、宗氏もそれに応えて日朝交易に積極的に参加をしていった。


 李氏朝鮮建国当初は、入港場に制限はなく、通交者は随意の浦々に入港することが可能であった。しかし各地の防備の状況が倭寇に漏れるのを恐れ、交易統制のためもあり、1407年、朝鮮は興利倭船(米、魚、塩など日常品の交易をする船)の入港場を釜山浦・薺浦(乃而浦とも、慶尚南道の昌原市)に制限し、1410年には使送船(使節による通交船)についても同様の措置が取られた。

 1426年、対馬の有力者早田氏が慶尚道全域で任意に交易できるよう要求したのに対し、拒絶する代償として塩浦(蔚山広域市)を入港場に追加した。これら釜山浦・薺浦・塩浦を総称して三浦と呼ぶ。(浦は港の意味)

 1510年。事の発端は釣りに向かう薺浦の恒居倭人4名を、海賊と誤認した朝鮮役人が斬殺した事にあった。日ごろから折り合いの悪かった三浦の恒居倭人は、この事態に憤慨し一斉に武器を持って立ち上がった。


 さらに、4月4日、対馬から宗盛順率いる援軍を加えた恒居倭は、約4500の兵力をもって三浦の乱を起こした。これは宗氏主導で計画的に起こされたものと考えられている。彼らの目的は、強硬な取締りを行った辺将を討取り、朝鮮王朝の行なった交易の制限、恒居倭に対する検断権・徴税権の行使といった倭人抑圧政策の変更を迫る事にあった。


 倭軍は、釜山浦・薺浦の僉使営を陥落させ、釜山浦では辺将を討取り、薺浦では生け捕りにした。さらに釜山浦から東萊城、薺浦から熊川城へ攻め進むが反撃に会い攻撃は頓挫した。4月9日頃、倭軍は兵の一部を対馬へ撤退させた。盛親は残りを薺浦へ集結させて自ら講和交渉に臨もうとしたが、朝鮮は講和に応じず、4月19日、朝鮮軍は薺浦へ攻撃をかけ、薺浦は陥落。倭軍は対馬へ撤退した。6月末、倭軍は再度来攻したが、撃退された。

 5人は敵の船を乗っ取ったが、爆薬によって爆死してしまった。

 


 

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