第32話 運命の秤


「球技大会お疲れ様~♪」


キンッと、グラスのぶつかる音頭が暗がりの店内に響く。

球技大会の一日を終え、仕事帰りにバーに寄った沙由里と亜希子がカウンター席に並んでグラスを傾ける。

「ダメじゃない。かわいい生徒を泣かしちゃ」

前置きもなく、亜希子が言った。それがなにを指して言っているのか、訊かずとも沙由里にはわかった。

「ええ、迂闊だったわ。まさか、生徒に見られていたなんて」

一口で半分ほど減ったカクテルを見つめながら、沙由里が呟いた。

「彼の方から呼び出してくるなんて珍しかったから。それも、朝一番学校で逢いたいなんて……」

「嬉しくて浮き足立っちゃった?」

「心配になったの! 彼は自分からそういうこと言う人じゃなかったから……なにかよほどのことがあったんじゃなかって」

言う、ねぇ……

グラスを片手に、亜希子は横目で沙由里の横顔を見遣る。

「なにかあったんだ?」

「どうだろう。結局いつも通り求められただけだったんだけど……ただ」

「ただ?」

「いつもは私を安心させるように触れてくるのに、その日だけはなんていうか……何かから目を逸らすような、自分のためであるような、そんな感じがした」

「うわっ、なにそれちょー興奮すんじゃん! 見たかったわー、そんときのあんた。絶対女の顔してたわよ」

あんなイケメンに迫られたらヤバいわよねなんて言う亜希子に、沙由里は酒の所為かどうかわからないほど顔を真っ赤にして睨む。

「私は彼が心配なだけ! 年甲斐もなくそんな浮ついた気持ちなんて持ってないわ」

「生徒と一線越えた教師のセリフじゃないわね、それ。ただのいいわけじゃん」

あけすけな亜希子の物言いに、しかし沙由里は叱られた子供のように表情を曇らせ俯く。

「そうね。本当にそう……。私は教師失格よね」

「だから今日あの子に手を貸したの? 断ち切るために」

「そうかもしれないわね。ただ最近ね、前より逢う頻度が減っていたのよ。彼の中になにか変化があったんだと思った。……いいことだわ」

「ふーん。そのわりにいつもよりお酒が進んでるんじゃない? やっぱり、ちょっとは惹かれてた?」

いつの間にか空になった沙由里のグラスを見て、亜希子が言う。

「…………そりゃあね。ただ心配だからってだけで、生徒と関係を持ったりなんてしないわよ」

「あら、珍しく素直じゃない。まだ一杯目なのに」

言いながらグラスを空にして、二人分追加注文する。

仕事帰りにこうして二人で集まって飲むことはよくあった。けど、翌日が仕事の場合、沙由里はアルコールを頼まない。

それが今日は、強いお酒を既に二杯目まで注文している。それは、自分に依存していた生徒が離れていくことへの喜びだけではないのだろうことを意味していた。

今日の集まりも、沙由里からの誘いだった。

そんな傷心の同僚に、亜希子は呆れ気味に言った。

「だから学生のときにもっと恋愛してくればよかったのに。あんたモテたんだから」

新しく置かれたグラスの中で、細かい気泡がはりついている。グラスに映る亜希子の瞳は、自身の過ごした青春の日々を思い返していた。

「覚えてる? あたしらが高校生のとき、あたしとあんたでどっちの方が男子から告白されるか競ってたの」

「私はべつに競ってなかったわよ。むしろ勝手に盛り上がられて迷惑だったわ」

「まあ、あんたはそうよね。……それでさ、あたしが好きな相手はあんたのことが好きでさ。けど、あんたは結局誰とも付き合わなかった」

「あの時は、なんか毎日のように告白されて、中には話題に乗るって理由だけで告白してきた人もいたから……一人一人とちゃんと向き合った上で誰の手を取るかを真剣に考える余裕がなかったのよ」

「その所為で勿体ぶってるビッチとか、女子グループからさんざん言われてたよね。男子の方から勝手に寄ってくるだけなのに。モテない女の僻みってやつね」

「あのとき、それで落ち込んでた私をかばってそうやって堂々と言う亜希子には救われたわ。まあ、相手の子が泣くまで言うのはどうかと思ったけど」

亜希子はけらけら笑いながらグラスを呷る。

「でもあんた、そうやって幸せを譲ってばっかりじゃずっと独り身よ? それか変な奴ばっか寄ってくるだけよ。それだけの美人で男いないとか」

「いいの。私には亜希子がいてくれるから」

「やだ、告られちゃった? やー、嬉しいわー! 今日一緒に寝る?」

「はいはい………けどね、彼はこれまで、その幸せを拒絶してきた。それなのに、突然目の前に現れた幸せをそう簡単に受け入れることができるのかしら」

心配そうな瞳で、沙由里は手元のグラスを見つめる。

「まあ、あとは若い者同士にまかせて、あたしら邪魔者はここらで退散して見守るのが無難でしょ」

「その通りなんだけど、そんな年寄りみたいな物言いはやめて。本当にいい年なんだから」

薄らと涙を浮かべる沙由里。

「なに言ってんの、まだ三年目の新人じゃん」

「三年目を新人と思って仕事していたら、生徒に示しがつかないわ」

「さすが、生徒想いの浜岡沙由里センセーね。あんたが生徒間の問題を裏からどれだけコントロールして解決してきたか、生徒は当然として教師陣も気づいてない人多いだろうね。上に報告すればおおいに誉めそやされただろうにさ。だれでも対処できるような小さいことを得意顔で逐一報告する先生だっているのに」

しかもそれを自慢げに話ながらあたしに言い寄ってくるのよー笑えるよねー、なんて言いながら亜希子は足を組み直す。

「けど、そうね。三年あれば、生徒は入学して、卒業していくものね」

「ええ。あっという間に。この先の長い人生の中の、ほんの一瞬よ。私達がなにかするでもなく彼らは一人一人考え、成長していく。大きな影響を与えることなんてない。私はその中で、困ってる生徒をほんの少し手伝っているだけにすぎない。だから褒められることなんてなにもしてないのよ」

二杯目のグラスを飲み干し、沙由里はどこか遠くを見るように視線をカウンターに並べられた数多の酒瓶に彷徨わせる。

「彼も、助けを求めていただけ。ずっと……。けど、孤独と幸せのどちらに染まることも恐れている彼を、私は救うことができなかった。生きている限り、どちらかには必ず傾く運命にある秤の上に立つ彼を、救ってあげることができなかった」

空になったグラスを握り締める。亜希子は隣で口を挟まず耳を傾けていた。

「けど、彼女なら……。大切な人のためなら迷うことなく突き進む力のある彼女なら」

空になっていることも忘れてグラスを傾ける沙由里。そんな痛々しい友人の姿にひとつ息を吐いてから、亜希子はそっと背を撫でて言った。

「若さ、か……あたし達にはちょっと眩しすぎる力よね」



「ま、今日はとことん付き合うからさ。好きなだけ飲んで、好きなだけ吐き出しな。ここで聞いたことはちゃんと忘れるから」




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