第33話 第五章『七夕祭り』 未練

球技大会を終えて、三日が過ぎた。


現役三年生部員を華麗に蹴散らし、仲間の窮地を救っての大逆転。

それを為した新たな(イケメン)ヒーロー出現の衝撃は、未だ校内を騒がせていた。

元々有名な拓海と同じチームだったということで、学年とクラスがすぐに知れ渡ってしまったためか、凪咲のクラスには以前にも増して訪問客が押し寄せていた。拓海と空が並んで廊下を歩いているときなんかは、あちこちから嬌声が上がって大変だ。

そんな風景を目にする度に、凪咲はモヤモヤヒヤヒヤしながら遠目に様子を窺ったりするのだが、人集りの中から凪咲を見つけた空と目が合うと、彼がそっと微笑んでくれるので、その度に顔を紅潮とさせていた。


空の腕に抱きしめられたあの日の感覚は、今もずっと全身に残っている。

感極まった故にとはいえ、我ながら大胆すぎることをしたかもしれないと、凪咲は思い出す度に恥ずかしくなる。けど、この何気ない日常の風景の中に空の姿あることが、とても嬉しくて安心した。


反対に、拓海とは少し距離が遠くなってしまったように感じた。

教室では挨拶や普通に話し掛けてくれたりするけど、ふとした瞬間に目が合うと、彼はぎこちない笑顔を浮かべることがある。

けど、仕方のないことでもあった。すべては自分自身が招いたことなのだから。


球技大会が終わってすぐ、拓海と二人きりで会った。

彼との約束を守ることができなくなったことを、伝えるためだ。

凪咲と向き合う彼は、なんとなくすべてを理解しているような、そんな顔をしていた。それでも、凪咲の口から自分の気持ちを伝えると、一瞬、少し寂しそうな顔をして、すぐにいつもの明るい笑顔で言った。

「俺の方こそ、あの時いきなり誘っちゃってごめんね。けど、話してくれてありがとう」

その言葉は本心でも、彼が無理をして笑ってくれていることはわかった。

彼には、これまで何度助けてもらっただろうか。彼がいなければ、とっくに気持ちが挫けていたかもしれない。

それでも彼の想いに応えられないことが苦しくて、泣いてしまいそうになった。

けど、ここで涙を流すのは卑怯な気がして、去っていく彼の姿が見えなくなるまで、必死に堪えた。



空目当ての訪問客の中には、大船部長の姿もあった。

球技大会が終わってからというものの、彼は毎日のように空をバスケ部に勧誘に来ていた。全国制覇のためにぜひ戦力になってもらいたいと、熱弁を振るっていた。けど、空の意志は変わらなかった。


「今日も、先輩の誘い、断っちゃったの?」

帰り道、凪咲は空に訊いてみた。

大船が空の勧誘に教室にやって来たとき、凪咲は球技大会の件で彼に礼を言った。その際、大船に空の説得を頼まれてしまった。

だからというわけではないが、空が勧誘を断っていることは凪咲も気になっていたので、こうして訊ねてみたのだが、

「ああ。試合は楽しかったけど、いますぐ全力で打ち込みたいかって言われたら、少し違う気がした」

淀みなく、彼はそう答えた。

その一瞬見せた不安さえ、空は見逃さなかったようで、くしゃっと凪咲の頭を撫でると、

「そんな顔すんな」

そう言って微笑んだ。

「それにな。未練なら、本当はあるんだよ」

「え?」

――そうなのッ!?

「ど、どんな……?」

前のめりで訊ねる凪咲。

「前に、たった一度だけ食べた出汁巻き卵の味が忘れられなくてな。いつかもう一度食べてみたいと思ってたんだ。けど、もらい物だったから、どこの店の料理かは分からなかった」

初めて会ったときに空が出汁巻き卵を好きだと言っていたことを、忘れたことはない。あれは、思っていた以上に空にとって重要なことだったらしい。

「妹も、それが好きだった。だから、退院したら、一緒に食べに行こうって約束してたんだ」

遠くの雲を眺めながら、空が言った。

きっと、料理そのものが未練なのではなく、妹さんとの約束が彼にとっての未練なのだろう。そう思うと、やりきれない気持ちで胸が苦しくなる。

そんな凪咲の様子を見て、空は自分が重くしてしまった空気を払うように、少し声を踊らせて言った。

「それより、凪咲。あの約束の方はどうなんだ」

「え?……あっ!」

即座に彼の言葉を思い出す。


拓海より点取ったら、俺と『七夕祭り』行ってよ――


すでに七月も三日が過ぎ、今週末に祭りが迫っていた。

空と『七夕祭り』に行けるなんて夢のようだったが、残念ながら断らなければならない。

「あ、あの、そのことで言いそびれてしまっていたことがあって。実はその日、お店の手伝いをしないといけないの。祭りの日は毎年すごい混むから、忙しくて」

拓海のときも含めて、本当はすぐに断るべきだった。

けど、どちらの際も、突然のことに驚いて、つい言いそびれてしまっていたのだ。

ただ、この数日間で、空を祭りに誘おうと群がる大勢の女子達を見てきたので、もしすぐに断っていたら、今頃誰かとの約束を取り付けてしまっていたかもしれないとも思った。そう考えると、これはこれで結果オーライなのかもしれない、などと心中でほくそ笑むブラック凪咲がいた。

「そうか。それは残念だ」

言葉通り、空の横顔はどこか寂しそうだった。

「言うのが遅くなってごめんね。それで、お詫びってわけじゃないんだけど、朝海くん、この後時間ある? よかったらウチ寄ってご飯食べてかない?」

すると、目に見えて空の表情が明るくなった。

「いいのか?」

「もちろん! あ、でも今日は定休日でお父さんいないから、作るの私なんだけど、それでもいい?」

「ああ。凪咲の料理も楽しみだ」

よかった。

さて、これは気合いを入れなければならない。凪咲は、店に着くなり、エプロンとナプキンを身につけて厨房に向かう。

メニューは決まっていた。先刻話を聞いたときではない。もっと以前、空っぽだった心に、優しさをもらったあの日から。


「おまたせ! 朝海くんの言う出汁巻き卵には敵わないかもしれないけど、お口に合えば嬉しいな」

「ああ、ありがとう」

我ながら上手くできたんじゃないだろうか、と凪咲は空の前に料理を置いて、向かいの椅子に座る。

空は、テーブルの割り箸を取ってパキッと割る。まずは感触を確かめるように、出汁巻き卵の表面にゆっくりと割り箸を入れていく。黄金色に輝く切れ目から、ふんわりと白い湯気が立ち上った。

「じゃあ、いただきます」

端の方の一切れを掴む。空の表情は、心なしか嬉しそうだった。

凪咲にも緊張が奔る。美味しくできたかな? 大丈夫だよね? と固唾を呑んで口に運ばれていく黄金色の軌跡を目で追った。

だが、空がそれを口に入れた瞬間、彼は驚いたように目を大きく見開き、そして……

涙を流した。

「あ、朝海くんッ!?」

驚いて、椅子から立ち上がる凪咲。

「ど、どうしたのッ!? なにか変なもの入ってた!?」

空は無言でかぶりを振る。

しかし、言葉を詰まらせ、堪えられないというように、手でこめかみを掴んで顔を覆い、俯く。


「…………お前、だったのか……」


空が何かを呟いたような気がしたが、なんと言っているかまでは凪咲には分からなかった。

ただ目の前で微かな嗚咽を漏らしながら体を震わせる空が心配で、凪咲は目を潤ませる。テーブルの上に置かれた空の左手を、我知らず両手で握り締めていた。


しばらくしてから、ようやく涙が止まったようで、空が落ち着きを取り戻した。

「悪い……突然」

「ううん。大丈夫?」

空の手を握り締めたまま訊ねる。

「ああ……もう、大丈夫だ」

赤くなった眼を机上に彷徨わせながら、空は答えた。

その言葉を信じて、凪咲は涙の訳は訊ねなかったが、握り締めた空の手は、しばらくはなさなかった。


そんな二人の様子を、裏口から店に入ってきていた養次が、厨房の影から息を潜めて見つめていた。

はじめは、何やら痴情のもつれか何かかと思って戸惑っていたが、すぐにそうではないと分かった。

咽び泣いている男の子の姿が、母を亡くしたばかりの頃の凪咲と重なって見えたからだ。彼も、簡単には癒やすことのできない大きな傷を抱えているのだと、養次は直感した。


邪魔しないようにとしばし影から見守ってから、タイミングを見計らって養次は二人の前に顔を出した。

「ただいまー、凪咲。そっちの君は、この前来てた友達だな。いらっしゃい」

「あ、おかえり、お父さん」

「お邪魔してます」

立ち上がって頭を下げようとする空を、養次は手振りで制止する。

「いーよいーよ。ゆっくりしていってな。ところで君、朝海くん、だったっけか」

「はい」

「朝海くんさ、今週末の七日って何か予定入ってる? もし何もなければ、よかったらその日、ウチの店の手伝い頼めないかい」

「「え?」」

空と凪咲の二人が同時に声を上げる。

「お礼に夕飯ごちそうするから。もちろんバイト代も出すけど、どう?」

「ちょっと、お父さん! いきなりなに言ってるの? 朝海くんにも予定が――」

言いかけて、その彼の予定をつい先刻自分が潰していたことを思い出す。

けど、いきなり店の手伝いなんて頼んだら迷惑なことには変わりないと思い、父の説得を続けようとしたが、

「やります」

そう言った空の声が聞こえてきた。凪咲が空の方へ振り返る。

父を見つめる彼の眼差しは、気を使って返事をしているようには感じられなかった。

「お、やってくれるかい? 助かるよ。それじゃあよろしくな」

そう言って、養次はさっさと厨房に向かっていった。

「本当にいいの? 朝海くん」

「ああ。凪咲やお父さんにはご飯ごちそうになってるから」

頷きながら、空は微笑んだ。


やったー! 朝海くんと祭りに行けずに残念だったけど、一緒にいられるなら嬉しいなぁ。けどお父さん、今年はなんで誰かに手伝ってほしいなんて言ったんだろ?


そう思いながらも、凪咲の頭の中は当日の楽しみで溢れ、些細な疑問を打ち消していたのだった。

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