第34話 選手交代

そして、七月七日。

『七夕祭り』当日。


未だ梅雨明けを迎えておらず、悪天候の日々が続いていたことで当日の空模様が不安視されていたが、幸運にも祭り本番の今日は晴天となった。


昼前に凪咲が店の外に出てみると、通りにはちらほらと浴衣を着たカップルや家族連れといった祭り客の姿があった。

店の前の通りは朝から交通規制がされていて、道路脇にはパトカーや消防車が数台停めてある。この日は地方からの観光客も多く、日が昇る頃には通りは人で溢れかえっていた。

いつも見ている広い海で揺蕩う小波も、この日ばかりは次々と押し寄せる人波に変わっていた。

その人波の中から、空の顔が見えた。

背が高いので、周りより頭がひとつ飛び出ていてすぐにわかった。凪咲が手を振ると、空はすぐに気付いたようで、軽く手を上げていた。

「おはよう、朝海くん。今日はよろしくお願いします」

「ああ、こちらこそ。なんでも言ってくれ」

軽く挨拶を交わして店に入る。

「それじゃあ、凪咲はいつも通りに。朝海くんは基本は凪咲と一緒にホールで、洗い物溜まってきたらそっちよろしく」

養次の指示に従って、各々準備を始める。

同じ空間に空がいると思うと、どうしても意識してしまう。テーブル周りを掃除しながら、凪咲はチラッと横目で空を見やる。エプロン姿の空は新鮮で、とても似合っていると思った。仕事中によそ見ばかりしちゃったらどうしよう、と贅沢な悩みに頭を抱えながら。


しかし、いざ店を開けると、そんな悩みなど考える暇がないほどに客で溢れかえった。

次々とお客が来店してきて、元々小さな店内はすぐに満席となり、空いた先からまた埋まっていく。忙しなく店内を駆け回り、お客を捌いていく。オーダーに配膳、後片付けに会計と、てんてこ舞いだった。

その中でひとつ気になったのが、空が接客した若い女性客のほとんどが、空が去った後にチラチラと彼を色目で見ているのが分かった。背が高く、見てくれも良い空の働く姿は、混雑する店内にあってもよく人目を惹いた。

それだけならまだいいのだが、中には凪咲が通る度に、色っぽいお姉さんの浴衣がどんどんはだけていったり、夜にある打ち上げ花火に誘う声が聞こえたりという場面がしばしば目に入ってきて落ち着かなかった。けど、空本人はどんな誘いもさらりと躱して仕事に励んでいたので、とても頼もしく思った。


お客の数は一向に減る様子がなかったが、昼時を過ぎた辺りで、一度中休みを取った。

三人でまかないを食べ、再開に備える。表の通りは変わらず人混みに溢れ、店の外から祭り客の賑わう声が聞こえてきた。普段の営業再開は夕刻からなのだが、今日は一時間ほどで切り上げ、すぐに再開した。

休憩明け後も、忙しさは変わらず、客の往来が激しかった。

気付けば、外が徐々に暗がりを帯び始めていた。


祭りのメインイベントであり、フィナーレを飾る打ち上げ花火の時間が迫ってきたことで、ようやく客の足並みが落ち着いてきた。

そんな中で、店の入り口から、聞き覚えのある声が耳に入ってきた。

「やっほー、凪咲ー!繁盛してっかぁ」

夏澄と、隣には玲夏もいた。

「お! 朝海も頑張ってんじゃん! えらいえらい」

「夏澄、何様なのよ、あなたは」

「あれ? 二人ともいらっしゃい。一緒に回ってたの?」

「いんや。玲夏とはそこで待ち合わせてたんだよ」

「待ち合わせ?」

「そだよん。ってことで、凪咲、朝海! 選手交代だ」

「え?」

話がよく分からず、首を傾げる凪咲。奥の方では、空も作業しながら首を傾げていた。

「お店の手伝いに来たのよ。ここからは私と夏澄で代わるから、二人は少しの時間だけど、お祭りを楽しんでらっしゃい」

「えっ、えっ!? なんで? どうして」

思ってもみなかった提案に、凪咲は困惑する。

空と店の手伝いをすることは、あらかじめ話してあったが、どうして二人が交代に来てくれたのだろう。そんなことを考えていると、凪咲の表情から察した玲夏が答える。

「凪咲のお父さんにはいつも美味しい料理をごちそうになってしまっているからね。私達もなにかお手伝いできたらと思って、夏澄と一緒にお父さんに連絡して提案したのよ」

「店に四人いても邪魔んなっちゃうと思うし、だったら交代した方がいいんじゃね、ってね」

二人に肩を叩かれる。ぽかんと口を開けている凪咲をおいて、夏澄は厨房に向かう。

「じゃあ、おじさん。こっからは私らが手伝うねー」

「おう! 二人ともありがとな! 終わったら、腹いっぱい美味いもん食べさせてやっからな」

「あっとぉ、その前に……凪咲ちょっとこっちおいでー!」

夏澄に手招かれ、凪咲は店の奥に向かう。

「せっかくのお祭りなんだし、ちゃんとおめかししないとな」

「おめかし?」

「そ。そんなわけで、ちょっと凪咲連れてくから、それまで店よろしくなぁ、朝海ー」

「ああ」

作業しながら空が頷く。


夏澄と玲夏に連れられて、店の奥の和室に上がると、床に綺麗に畳まれた浴衣が置いてあった。

凪咲は手にとってひろげてみる。濃紺地に菖蒲柄の浴衣と赤地の帯。この浴衣には、見覚えがあった。

「これ、お母さんの浴衣だ」

前に一度だけ見たことがあった。これを着た母の姿はとても大人っぽくて、子供ながらに憧れを抱いたのを覚えている。

「素敵な浴衣ね。きっと、凪咲にもよく似合うわ」

玲夏が優しく微笑む。

「さて。それじゃあ、ちゃっちゃと着付けを始めましょうかね」

浴衣の着付けは夏澄が、軽い化粧を玲夏が手分けして進めていく。慣れた手つきでこなしていく二人に身を任せるままに、あっという間に変身が完了した。

凪咲は和室にあった立て鏡の前に立ち、自分の姿を見る。そこにいたのは、毎日見てきたはずの自分の姿ではなかった。

頭頂で綺麗にまとめられた髪に、ほんのりと施された化粧は、それだけで大人っぽい印象を感じる。母の浴衣の生地は大人の女性に似合う色柄なので、自分にはまだ早いんじゃないかと凪咲は思っていたが、凪咲自身がちょっと見とれてしまうくらいの仕上がりに二人がしてくれた。

凪咲の両脇から、夏澄と玲夏が鏡に映り込む。二人は鏡越しに凪咲を見つめて言った。

「おおー! よく似合ってんじゃん、凪咲」

「素敵ね。早くお父さんと朝海くんに見せに行きましょう」

「うん」

凪咲は二人に振り返る。

「夏澄ちゃん、玲夏ちゃん。二人とも、本当にありがとう。こんな、別人みたいに綺麗にしてもらっちゃって。それに、お店の手伝いまで。朝海くんとお祭り行けるなんて、夢みたいで、私……」

目の奥がツンとしてくる。やばい、なんか泣きそう。

「あーあー! 泣くな凪咲! 泣いたらメイクが落ちるぞ」

夏澄に慌てて宥められ、なんとか堪える。

「よし! じゃあ行ってこい! 絶対ェあいつのこと振り向かせてやんだぞー」

「大丈夫。自信持って、凪咲。今日のあなたは誰よりも綺麗よ」

ぽんと、軽く肩を叩いて送り出される。

空と祭りに行けるのはもちろん嬉しいが、それ以上に、こんなにも自分を思ってくれている友人がいることが、とても幸せだった。


店に戻った凪咲を目にした空は、それまできびきびと動かしていた手を止めて浴衣姿の凪咲に目を奪われていた。

無言で見つめられ、凪咲は恥ずかしさに顔が熱くなった。



夏澄と玲夏の二人と店番を交代して、空と凪咲は、二人並んで夜の祭りへと繰り出していった。

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