第31話 決勝戦5 後半戦2

夢ではなくなった逆転劇に、ギャラリーのボルテージも最高潮に達し、声援が大きくなる。

そして、残り時間が15秒を切ったところで、スコアは『58-59』。

ついに――

「一点差だぁーーッ!」

誰からともなく叫び声が上がる。

正真正銘、次がラストプレーとなるだろう。凪咲は緊張で速まる鼓動を落ち着かせようと、顔の前で手を組んで祈る。

ただ空を、拓海を、クラスのチームを信じて。


空のディフェンスで、三年生メンバーは皆著しくスタミナを奪われていた。

その疲労が終盤のこの場面で強く響き、パスの精度が若干甘くなる。その一瞬を逃さず、空がスティールした。

歓声が上がると同時に、ゴールへ走る拓海に、空からのパスが通る。

残り数秒。ディフェンスは二人。

これを決めれば逆転勝利という場面で、拓海の脳裏に凪咲との約束が過ぎった。


――もし俺達のクラスが優勝したらさ、今度の『七夕祭り』、俺と一緒に行ってよ


拓海が自分から特定の女子を誘ったのは、初めてのことだった。

心から誰かを好きになったのが、初めてだったからだ。

試合中、彼女の応援だけはずっと耳に届いていた。今も必死に自分達を応援してくれている。


後方から相手のマークを外した空が走ってくる。二人のディフェンスが待ち受ける拓海に、攻めの手が増えた。

だが、拓海にパスの意志は無かった。

凪咲の見ている前で決勝ゴールを決めてみせる――空には悪いが、拓海にも譲れないものがあったからだ。

そして、ディフェンスの一人を抜き去り、ペネトレイト。

あと一人―――

拓海は残る力を振り絞り、相対するディフェンスに切り込もうとした、その瞬間だった。


「朝海くんッ! がんばれぇーーーッ!」


その声が――

絶対に他人と聞き間違えないであろう少女の声が、拓海の耳を貫いた。

後方からは空が走ってくる。拓海は、踏み出そうとした足を引っ込め、口許に諦観に似た笑みを浮かべた。


――俺じゃ、ないってさ……


そして、全身に漲っていた力を抜いてディフェンスから距離を取り、緩やかなシュートを放った。

勝負を分けるラストシュートに、ギャラリーが沸く。

だが、そのシュートは、ゴールリングから明らかに大きく外れた軌道を描いていた。

「なんだ? ミスショットか?」

三年チームが安堵の表情を浮かべて、ボールの行方を見守る。


「まさか……届くよな」


拓海は、瞬時に空へ視線を送る。

受け取った空が、走り込んできた勢いに乗って床を蹴り、フリースローラインから大きく跳躍した。

「お、おいッ! ちょっと待て! 何してやがんだァ、アイツはァ……!?」

空の狙うミラクルシュートを予測して、青田が信じられないものを見るような表情で声を上げる。

だが、宙を跳ぶ空の姿が、青田だけでなく、見る者すべてに劇的な瞬間を予測させた。

「おいッ! ウソだろアイツッ! まさか……!」

空中でボールを受け取った空の左手で、一瞬淡い光が揺らめいた。

そして――

そのままゴールリングに叩きつけると同時に、試合終了のブザーが、館内に鳴り響いた。

レーンアップアリウープ。

スーパープレイによる逆転劇を為した空に、ギャラリーから今日一番の歓声が上がった。

拓海が、チームメイトが、ベンチにいたクラスメイト達が、一斉に駆け寄って空に飛びついた。

彼らにもみくちゃにされながらも、その顔に笑顔を浮かべる空を見て、凪咲は涙が止まらなかった。

おめでとう、ありがとう、と心の中で何度も繰り返し、祝福を送った。


クラスメイト達に続いて、ギャラリーも拓海と空のツーショット目掛けて押し寄せてきた。拓海のファン達は言わずもがな、この試合で空の活躍に心を奪われた女子達の嬌声も上がる。

そんな様子を、凪咲は遠目から眺めていた。

二人は背が高いから、人混みにあっても頭ひとつ突き出ていて、よく目立つ。その輪の中心で、空は困惑の表情を浮かべながら周囲に対応していたかと思えば、次の瞬間、すっと空の頭が見えなくなった。

空の姿を見失った凪咲は、人混みの輪の後ろから必死に背伸びして彼を探す。すると、人混みの隙間から、空が逃げるように姿勢を低くして現れた。

「あ、朝海くん! 大丈――」

言いかけた凪咲の言葉を聞くより早く、空は凪咲の手を掴む。

「え? どうしたの……?」

困惑する凪咲を余所に、空は無言のまま出口に振り返り、人目を避けるように体育館を出ていった。

遠くなる二人の姿に、拓海だけが気付いていた。



女子側のコートでは夏澄達が見事勝利を収め、凪咲のクラスは男女揃って優勝を手にした。

未だ冷め止まぬ熱気に包まれる中、今年の球技大会は終了した。

「すぐに閉会式が始まります。皆、急いで整列して下さい」

沙由里の一声で、生徒達がまばらに散り、クラスごとに整列していく。

「あれ? 朝海は? 今日一番のヒーローがどこ行った」

チームメイトの一人だったクラスメイトが空の不在に気づき、周囲を見回す。

「そういや、凪咲もいねぇな」

つられて周囲を見回していた夏澄と玲夏が、凪咲もいないことに気付く。夏澄はすぐに顔をニヤけさせると、

「ちょっとちょっと玲夏ー! もしかしてこれって、もしかしたりする?」

周りに聞こえない声で玲夏に耳打ちする。玲夏は小さく笑った。

「そうだといいわね。けど、あとで余計な詮索したらだめよ」

「えー! 気になるじゃーん」

口を尖らせて駄々をこねる夏澄に、玲夏は溜め息を零した。

二人が一緒に抜け出したことを知っている拓海は、浮かない顔で閉会式に臨んでいた。自分が二人の間に介入できる余地など初めからないことは分かっていた。それでもなんとか彼女の目を惹こうと立ち回ったけど、結局彼女を振り向かせることはできなかった。

けど、空と一緒にバスケができた。ぎくしゃくしていたように見えた二人も、元の関係に戻った。今はそれでいいじゃないか、と自分に言い聞かせた。

あとは、彼女が二度と涙を流すことのないよう、全てを親友に任せ、拓海は身を引く覚悟を決めた。



体育館から連れ出された凪咲は、空に手を引かれるまま、人目のつきにくい校舎裏に連れて行かれていた。

突然のことで困惑しながらも、掴まれた腕から空の熱が伝わってきて、緊張が高まる。

足を止め、振り返る空が、すっと掴んでいた凪咲の手首から手を離す。

俯き気味で、表情がよくわからない。胸の鼓動は、まだ高鳴ったままだった。

「凪咲……」

呼ぶと同時に空が顔を上げる。

真っ直ぐな視線に見つめられ、凪咲は思わず見つめ返す。

さっきまで緊張で直視できなかった彼の表情は、よく見れば微かに頬を染め、試合の疲労によるものとは違う、甘い吐息が漏れていた。

加えて、誰もいない校舎裏に二人きり。全校生徒は閉会式の最中という状況が、凪咲の緊張を殊更に煽った。

「大きな思い違いをしていたみたいだ」

身を強張らせる凪咲に、空が口を開いた。

「凪咲と拓海が見せてくれようとしていた景色は、あんなにも眩しくて、衝撃的なものだったんだな。気持ちが昂ぶって、まだ収まらない。まだ……身体が震えている」

そう言って、空は制御できずにいる自身の手を見やる。

「誰かに頼られたり、頼ったり。そんなもの、俺にはもう必要ないと思っていた。けど試合中、ずっと凪咲の声が聞こえていた。拓海や仲間の掛け声が聞こえていた。それに悦びを見出している自分がいることに気付いた」

常に周囲と距離を置き、決して自分のことを口にしてこなかった彼が、己の心の内を憚ることなく吐露している。凪咲はただ彼の声に、言葉に耳を澄ませて聞き入っていた。

「気付けば、全てを忘れて無我夢中になっていた。悪くないと思った。心地良いと思った。ずっと……浸っていたいとさえ思った」

きっと届いているから――そう言っていた拓海の言葉が凪咲の脳裏を過ぎる。

自分のしてきたことは間違いではなかったのだと。ちゃんと、彼に届いたのだと。そのことを本当の意味で実感した瞬間、一筋の涙が凪咲の頬を伝った。

「よかった……よかったよ……届いてくれて、よかったよぉ」

やがて堰を切ったように滔々と涙が溢れ出す。凪咲は顔をぐしゃぐしゃにしながら、空に歩み寄る。

「もう、どこにも行かないで……お願いだから、ずっと側にいて」

震える声で訴える。

もう、誰を好きでも、何が好きでも構わない。今日感じたこと、思ったことをこの先もずっと胸の内に抱いて、ただ前を向いて歩いてほしい。

先程の空の言葉を聞けて、自分はもう十分報われた。

十分幸せだった。

そう、自分に言い聞かせた。

その献身的な振る舞いが、空の理性を霞ませていることも知らずに。

空は、必死に涙を拭っている凪咲に歩み寄る。

「あの日……せっかく来てくれたのに、余計なことなんて言って、悪かった」

ふるふると凪咲はかぶりを振る。

「私の方こそ、叩いちゃってごめんね」

消え入りそうな声で言いながら、凪咲は左手を空の右頬に伸ばし……そっと触れる。

凪咲の薬指で光る淡い輝きが、空の視界に入った。


それが何かの合図であったかのように、気付けば空の腕が凪咲の両肩を掴んでいた。

そのままぐっと引き寄せて、力強く凪咲を抱きしめた。



小さく華奢な凪咲の体が、腕の中で震えている。

いきなりこんなことをして、拒絶されるかもしれない。それでも、いまはただ、こうしていたい。離したくない。

「凪咲……ありがとう」

擦れた声が耳腔を通って凪咲の胸の奥に染みわたり、また涙が溢れ出す。

この抱えきれないほどの幸福を一粒も逃がさないようにと、空の大きな背中に腕を伸ばし、ぎゅっと抱きしめ返す。

「うん、私も。今、こうして目の前にいてくれて、ありがとう……」

空の抱きしめる力が強くなる。

応えるように凪咲の腕も。


そうやって、手の中にある愛しい温もりが幻でないことを確かめ合うように、二人は時間を忘れて、幸福の深海に沈んでいった。







×


――もう、十分だ


――身に余るほどの幸福を、君にもらった



――迷いはない


――後悔もない





――これでもう……なにも思い残すことは、ない


×

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