第29話 決勝戦3 ハーフタイム2
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――俺があいつに勝てるものなんて、何ひとつない。
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「どう、して……?」
空の意図がわからず、狼狽する凪咲。
どうして拓海のためと言った途端、「余計に」断るというのだろうか。そもそも、どうして空は拓海のためかなどと訊いてきたのだろうか。
しかし、空が答える様子は見られない。
重い空気だけが、その場に漂っていた。
沈黙を破ったのは、体育館に続く廊下から聞こえてきた女子生徒達の声だった。
「あ、もうすぐ後半戦始まるよ。春沖先輩の応援行かなくっちゃ」
「けど正直さぁ、先輩のクラスが勝つの難しくない? 相手ちょー強いのに、先輩のチームで強いの先輩一人だけだし」
「ねー。先輩、他の人の分も頑張ってたけど、前半終わったらなんか床に倒れる感じですごい疲れてたよね」
「でも、あの苦しそうな表情の先輩もイイよね! 最後まで諦めない感じもカッコいいし」
「うんうん! だからこそ、私達も最後まで応援しなくちゃ」
彼女達のやり取りは、凪咲と空の耳にも届いていた。
いまの話が本当なら、拓海は前半戦だけで相当体力を消耗しているのだろう。もしかしたら、後半戦が始まってすぐに限界がきてしまうかもしれない。
「朝海くん――」
「行ってこい、凪咲。行って、あいつを応援してやれ。そうすりゃ、もしかしたら逆転できるかもな」
「応援だけじゃ足りないよ。朝海くんの……朝海くんの力がなくちゃ、勝てない」
「くどいぞ。俺は興味ないと――」
「もし負けたら、春沖くんが退部させられちゃうの!」
「ッ!?」
空が僅かに顔色を変えて、面を上げる。
「どういうことだ」
先程は噤んだ言葉が、口を衝いて出てしまった。だが、自分の失態を悔いている余裕は、今の凪咲にはなかった。
「私が話をしに行ったとき、春沖くんが部の先輩の一人に目をつけられてしまって……」
「そいつに、試合に負けたら辞めろとでも言われたのか」
凪咲は小さく頷く。
「私が言い出したことに、春沖くんを巻き込んでしまった……」
「だから余計なことはするなと言ったんだ」
言いながら、空は溜め息を吐く。だが、その声音には不思議と咎めるような重さは感じなかった。
「けど、そうではないと、あいつは言うんだろうな」
「え?」
「あいつが違うと言うなら、その通りなんだろう。凪咲が気に病む必要はない」
意外にも柔らかな口調に驚いて、凪咲は思わず目を丸くする。
空がすっと立ち上がった。
そして、
「凪咲」
その改まった声に、凪咲は反射的に背筋を伸ばして向き合う。
「凪咲が、俺の未練を探していることは知っていた。けど、そのために奔走するのは、ただの親切心からではないと思った」
空は、海の中で手を引かれた感触を思い出す。
「偶然居合わせただけだが、放ってはおけない――それだけで他人のために命を投げ出せるほど、自分自身の命は軽くない。だから、なにか別の……もっと特別な何かがあるんだと、そう思ってた」
トクン、と凪咲の心臓が小さく跳ねる。頬が熱くなると同時に、ドキリともした。彼の言ったその特別というものの形を、彼自身に気付かれてしまったのではないかと思ったからだ。
だが、そっと窺った空の表情は、翳りを帯びているように見えた。
「だが、お前は、お前の友人のためならば、等しい熱量で奔走していた。そして、今は拓海のためにここにいる。俺が考えていたことは、ただの思い上がりだったんだと知った」
空はすっと目を伏せると、口許に自嘲気味な笑みを浮かべた。
「凪咲の優しさに触れて、自分の卑しさと心の狭さにおぞましさを感じたよ。身を投げて、凪咲に救われて、そのお前の前ではあの日と心は変わらないことをちらつかせるような、弱くて情けない人間だったんだ。離れて行こうとしながら、縋っていたんだ」
「情けなくなんかないよ!」
凪咲の張り上げた声に、空がはっと顔を上げる。
「朝海くんは情けなくなんかない。それに、縋ったっていいんだよ。というか、私は縋ってほしい」
以前、似たような弱音を拓海に吐いた時のことを思い出す。
拓海に、誰にでも弱さみたいなものはあると言ってもらって、気持ちが救われたことを覚えている。だから、空が自身を卑下したことは誰にでもあることで、そんなときに側で支えたいからこそ、縋ってくれることは凪咲にとって嬉しいことなのだ。
「それに、さっき朝海くん言ってたよね? 別の特別な何かがあると思っていて、けどそうじゃなかったから自分を責めたって」
凪咲の頬だけでなく、顔全体が赤く染まる。
「もし、それでショックを受けたっていうのが本当なら、私は、その…………嬉しい、よ」
言ってから、凪咲は恥ずかしさのあまり俯く。
空は、虚を突かれたように目を丸くした。
「朝海くんのためって言いながら、私はずっと自分のしていることに自信を持てなかった。それが正しいのか、本当に朝海くんの助けになっているのか、ずっと迷って、すぐに挫けて、誰かに頼って」
好きな人が遠くへ行こうとしていることを知りながら、踏み出す勇気を持てなくて、失恋しただけで立ち止まって、立ち上がれなくなって、その度に誰かに助けられてきた。
「だから、本当に朝海くんが縋ってくれていたなら、私は嬉しいよ。ずっと、朝海くんが縋る相手は別の人で、私がしていることはただの独りよがりのお節介なんじゃないかって思ってたから」
「別の相手?」
空の問いに凪咲は一瞬迷い、それから震える声で告げた。
「沙由里ちゃんだよ」
空の顔色がはっきりと変わった。
「ごめんね……実は、私が倒れた日、二人がキスしているとこ見ちゃったんだ。あ、でも安心して。誰かに言ったりはしてないから」
努めて明るく振る舞おうとしているのに、声が震えてしまう。空はしくじったというように頭の後ろを掻きながら、大きく息を吐いた。
「べつに……俺と沙由里先生は、凪咲が思っているような関係じゃない」
「え……どういう、こと?」
「あれは、俺に必要なことだったってだけだ」
「なに、それ……」
空の言っていることが、凪咲には理解できなかった。
「キスすることが必要だったの」
「そうだ」
「沙由里ちゃんと」
「いや。ただ、そのときに側にいたのが、沙由里先生だっただけだ」
益々わけが分からなかったが、凪咲はすぐには思考を放棄することはしなかった。これまでに交わした話と、彼の口にした言葉を思い出しながら当て嵌めていく。
空は必要だと言った。なぜ必要だったのか、その理由までは分からないけど、大きく関わっていると考えられるのは一つしかない。
「それは……妹さんが亡くなったことが、関係しているの?」
空の目が大きく見開かれる。なぜそれを知っているのか、そう言いたげな表情をしていた。だが、すぐに凪咲が知る機会に心当たりが浮かんだようだった。
「……波多野さん、か」
「うん。あの後、偶然会う機会があって、そこで。勝手に話を聞いていたことを黙ってて、ごめんなさい」
「いいよ。あの人が自分から話したんなら、べつにいい。それより、どうしてその話を持ち出すんだ」
「私もね、お母さんが死んじゃったとき、どうしていいか分からなくなっちゃったんだ。そのうち考えることが嫌になって、全部がどうでもよくなった。たぶん、あのときの私は空っぽだった」
肉親との別れが、遺された者に深い悲しみを与える。そのあまりに大きすぎる喪失感は、凪咲の心に同じだけぽっかりと穴を空け、目の前のことも、遠い未来のことも、数分先の未来でさえも目を向けることができなくなるほどに心を無気力にされた。
「けど、私は救われた」
そう、凪咲は救われた。目の前の男の子が、救ってくれたのだ。
「たったひとつの消しゴムが、私を救ってくれたの。あの時、朝海くんは私に一番必要なものをくれたんだよ」
思いが込み上げてきて、声が震える。あの消しゴムは、いまも凪咲の大切な宝物なのだ。
もしあの日、空に出会っていなければ、自分はきっと今も、空と出会う前の自分のままだっただろう。だから、今の彼に必要なものがあるのなら、たとえそれが、どれだけ凪咲の心を抉るようなことであったとしても、自分はそれを否定できないし、やめてほしいとも言えない。
「だから――」
自分は空を救うと決めたのだ。
たとえ、どのような方法であったとしても、彼が必要とすることならば、自分は惜しまず協力するつもりだ。
そうやって十分に大義名分を武装して、凪咲は頭が沸騰しそうになるほどの邪な思いを抑制しながら、ある種の覚悟を秘めた双眸で空を見つめた。
「もし、また必要になったときが来たなら…………そのときは私が、協力したい」
「は?」
珍しく、空の声が裏返った。
ぎゃーーー! 言っちゃったぁーー! 私言っちゃったよーー! っていうか「協力したい」ってなに!? そこは「協力する」でいいじゃん! いや、結局意味は一緒なんだけど、したいって、まるで私が朝海くんとキスがしたいだけって言ってるみたいじゃん! やだ、欲望丸出しの変態とか思われたらどうしよう! ってか、絶対思われてるよぉ~! わーん!
盛大に心の中で泣き言を叫びながら、凪咲は目を潤ませる。
「凪咲」
呼ばれて、ビクッと身体を震わせる。そんな凪咲に構わず、空が近づいてくる。
「じゃあ、もし俺が、今すぐ必要だと言ったら……」
凪咲の、文字通り目と鼻の先で、空が足を止める。あと一歩、いや半歩でも踏み出せば触れてしまいそうだった。
そして、見上げたところにあった空の顔が、凪咲の耳元に近づいてくる。緊張で固まっている凪咲の耳元に、ふっ、と彼の息が触れて、凪咲はビクッと身体を震わせた。
そんな凪咲に構わず、そのまま空が囁いた。
「今ここで、凪咲がキスしてくれんか?」
ボンッ、と頭から噴火する音が聞こえてきそうなほど全身が熱くなる。
このかつてない間合いで囁かれ、熱に侵された頭がクラクラとして何も考えられない。ただ分かっているのは、ほんの少し横に振り向けば、彼の顔が、彼の唇がそこにあるということだけだった。
だが、ここまできて……あそこまで宣言しておいて、逃げるわけにはいかない。凪咲はふるふると身体を強張らせながらも、覚悟を決めてギュッと目を瞑った。
しかし、唇になにかが触れた感触はない。直後、耳元で噴き出す音が聞こえてきた。
「凪咲、力みすぎ。それじゃあ、いいのかダメなのか、わかんねぇよ」
困ったように笑いながら、空が言った。
「えッ、えッ……!? あッ、ご、ごめん、なさい……」
いやー! 恥ずか死ぬ~……!
「大丈夫だ。冗談だよ」
空は肩を竦めながら、一歩後退る。
「からかってごめんな。けど、凪咲じゃダメなんだ」
「え」
身体の内に充満していた熱が、すっと冷めていった。
「私じゃ、朝海くんの力になれない、ってこと……?」
青ざめた顔で、力なく訊ねる凪咲。空は即座にかぶりを振る。
「そうじゃない。凪咲には感謝しているよ。随分と世話になってきた」
穏やかな口調で凪咲にそう言ってから、空は目を細めると、
「それから、拓海にもな」
感謝を告げるように、そう呟いた。
そして、体育館のある先を見据え、歩き出した。
「あいつには、早めに借りを返しておくとするか」
それが何を意味しているのか、凪咲にはすぐに分かった。
その瞬間、胸の奥から全てが救われたような喜びが込み上げてきて、全身に拡がった。高揚する気持ちを抑えきれず、凪咲は思わず叫んだ。
「試合に出てくれるの!?」
空がその場で足を止める。
凪咲に背を向けたまま、しばらく考えるような間があった。
空は振り返らずに言った。
「拓海から聞いたんだけどさ、試合に勝ったら、二人で『七夕祭り』行くんだって?」
「え? あ、うん。そうなんだけど……でもね、私――」
「じゃあ、俺があいつより点取ったら、俺と一緒に行ってよ」
「え――?」
凪咲の動きが固まる。
続いて思考も固まった。聞き間違いかと思った。自分に都合良く、脳内で言葉を変換しているだけだと思った。これでは、亜希子に応援されていた男子達と変わらないではないか。
「ああ、あとさ」
いまだ思考がまとまらずに口を開けて立ち尽くしている凪咲に、空が振り返る。
「それ、借りていいか? その、頭に巻いてるやつ」
「え? えと、ヘアゴム?」
「ああ」
何に使うんだろう? 空の髪は結い上げるほど長くはない。そう思いながらも、凪咲は言われるまま後ろ髪をまとめていたヘアゴムをシュルッと外して、空に手渡す。
空は、受け取った凪咲のヘアゴムを左手首に嵌めた。
「ん。ありがとう」
大事そうに、手首に嵌めた凪咲のヘアゴムを見つめる。
はじめて見た、その慈しむような双眸が尊くて、嬉しくて、愛しくて。胸の奥で疼く想いが抑えきれないほどに大きくなるのを感じた。
けど、まだ何かを成し遂げたわけではないこの場で、それを口にすることはできない。
何かを伝えるなら、全てを見届けてからだ。
空が体育館に向けて再び歩き出す。
凪咲は彼の後を、舞い上がりそうになる足取りで続いた。
「さて、行くとするか」
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