第25話 拓海
凪咲に手を引かれながら、拓海は凪咲が空に放った言葉を頭の中で反芻させていた。
空とぶつかってしまい、自分を庇ったせいで凪咲まで空と対立してしまった状況で、不謹慎だと分かっていながらつい口許が緩みそうになるのを必死に堪えていた。
――影でお節介だってウザがられたりすることもあるのは知ってる
あのとき、何気なく口にしたあの言葉は、ずっと拓海を苦しめてきた。
拓海は、ごく普通の家庭に生まれ、温かな家族に囲まれて育てられてきた。
兄と姉が一人ずつ、弟が二人と妹が一人の大所帯で、親戚が家に集まることも多かった。
とにかく家族と仲が良かった。拓海はそんな家族と過ごす日々がなにより楽しくて、なにより嬉しかった。
小学校に入学するとき、クラスの友達は自分の家族だと思って大切にしろ、と父から言われた。幼い身ながらもその言葉に感銘を受けた拓海に依存などなく、この温かな空間を護るために奔走した。虐められている子がいれば体を張って助けに入り、困っている子がいたら率先して手を貸してきた。
気づけば、拓海はいつもクラスの中心にいて、彼の周りには自然と人が集まってくるようになっていた。放課後誰かと遊ばなかった日は無く、バレンタインのチョコは誰よりも貰った。
家族や仲間と過ごす平和な日常こそが拓海にとっての宝物だった。
だが、それが中学、高校ともなれば、心の方も相応に成熟していく。
拓海に想いを寄せる者が相談と称して近づこうとしたり、ただ自身を肯定する言葉がほしいだけの者が拓海の良心に付け入ろうとしたり、ということもしばしばあった。
そういった輩に頭を抱えさせられはしたが、蟠りを残すことはなかった。
拓海の心に重くのしかかってきたのは、彼の知らない痛みを抱える者達からの言葉だった。
――お前に大切なものを失った痛みのなにが分かる?
そう突き放されたとき、はじめて言葉を失った。
悔しいと思ったが、同時に仕方のないことでもあると、心のどこかで思っていた。そう言われて、それでもあなたの気持ちは分かると言えるほど、おこがましくはなかった。
拓海の持っているものを持っていない者達からは、お節介だと疎まれることも少なくなかった。全ての者に、自分の想いが届くことはないのだと知った。
それ以来、似たようなケースでは慎重になるようになった。
それでも目に入り、耳に入ればその人を放っておくことはできなかったが、自分の行動が本当にその人の助けになっているのか、不安になることもあった。現に、先程空にも同じようなことを言われてしまった。
だからこそ、凪咲が声を上げてくれたことが本当に嬉しかった。自分のことを見ていてくれて、感謝の意を示してくれていたこともそうだが、これまで自分がしてきたことは間違いではなかったのだと、そう言ってくれているように感じたからだ。あのとき、凪咲は自己満足ではないと言ってくれたが、拓海自身は空の言った通り自己満足な部分もあることは認めていた。
それでも凪咲は、そうではないと否定してくれた。
だからこそあの凪咲の言葉がきっかけで、拓海は彼女に対して他の友人達とは違う、特別な感情を抱くようになっていた。
本音を言えば、以前から、家の手伝いに励み、友人を大切にする心優しい彼女のことが少し気になっていた。
それが今、自分を誤魔化すことができないほどに、気持ちが大きく膨らんでいた。これまで多くの友人達に向けてきた親愛を、いまはただ目の前のたった一人の少女に注ぎたいと思った。
空の家から少し離れたところで、先を歩いていた凪咲が拓海に背を向けたまま足を止めた。合わせて拓海も足を止め、その小さな背を見つめる。
凪咲が空に対して、ただ救いたいと思う気持ちとは別の想いを抱いていることを、拓海はなんとなく気づいていた。
それでも、彼女を支えたい。彼女を護りたい。
たとえ傷心に付け入ることだと罵られようとも、その覚悟を誓う言葉を彼女に告げたいと思った。
拓海の心臓が大きく鼓動する。顔も熱い。
六月の終わりの空に拡がる厚薄様々な雲は、夕陽を背後に隠し、とりどりの色彩をその身に纏っていた。
拓海は、気を落ち着かせるようにひとつ大きく息を吐いてから、一歩、凪咲の小さな背に歩み寄る。
「夏花さん、あ、あのさ……」
だが、ゆっくりと振り返った凪咲の顔を見て、拓海は喉まで出かかった言葉がピタリと止まった。
「ねえ、春沖くん……」
拓海の眼前に、溢れ出す涙で顔を濡らし、悲痛に歪んだ表情で拓海を見つめる少女の姿があった。
「どうしよう春沖くん……このままじゃ本当に、朝海くんが遠くに行っちゃうよ……」
まるで、自身の無力を呪うかのように、彼女は唇を震わせて言った。
途方も無い不安と恐怖をその華奢な体に募らせ、ついには抱えきれなくなってしまっていた。
その姿を目にしたとき、拓海は全てを悟った。
空に対する凪咲の想いは、自分の入り込む余地など無いほどに大きく、深いものだったのだ。
涙で滲んだ彼女の瞳には、空の姿しか映っていない。それでも、限界を迎えても彼女は拓海のために好意を寄せる相手に声を上げたのだ。ならば自分のすべきことは自分の気持ちを伝えることではなく、彼女の壊れかけの心を救ってやることなのだ。
拓海は、凪咲を安心させるように穏やかな笑みを浮かべて言った。
「大丈夫だよ、夏花さん。空のことは絶対に見捨てない。俺も諦めない。だから一緒にあいつを支えよう」
「でも、私……これ以上どうすれば私達の声が朝海くんに届くのか、分からないよ……」
涙でぐしゃぐしゃな顔を両手で拭いながら、凪咲は声を絞り出す。
「大丈夫。きっと届いてるから。届くから。だから、俺は明日の試合、必ず勝つ。勝って、あいつの居場所をつくって待ってるよ」
「けど、もし負けたら春沖くんが退部になっちゃうよ。それはダメだよ」
「それも大丈夫! 俺はぜってぇー負けないから。必ず勝ってみせるよ」
「でも――」
「じゃあ、俺が超がんばれるように、夏花さんに手伝ってほしいことがあるんだけど」
「え……」
顔を上げる凪咲に、拓海はさらに歩み寄る。手を伸ばせば、抱きしめられるような距離に。
そして、敵わないと知りながら、僅かの想いの欠片を口にした。
「もし俺達のクラスが優勝したらさ、今度の『七夕祭り』、俺と一緒に行ってよ」
甘さと、切なさと、真剣味を帯びた声音で拓海は囁いた。これくらいならいいよな、と心の中で繰り返し自分を納得させながら。
凪咲は、潤んだ瞳を丸くして、赤らんだ拓海の顔を見つめていた。すぐに声を出せなかったのは、彼に告げられた言葉の中に、単純な約束事以上の想いが込められていることに気づいていたからだ。
互いに黙ったまま見つめ合いながら、夕焼けにも負けないほど顔を赤く染める。
凪咲の瞳が、拓海の真剣で切な気な表情を捉え、チクリと胸の奥に疼きを覚える。だが、突然のことでなんと答えればいいのか分からず、言葉が出てこなかった。
やがて、拓海が先に目を逸らすと、すっと振り返って凪咲に背を向けた。
「じゃ、じゃあ、また明日。学校で。あ、俺、そこの公園でちょっと練習してから帰るわ」
「あ、う、うん、わかった。それじゃあ、また明日ね」
互いにぎこちなく手を振って別れる。
拓海の手にボールがないことは分かっていたが、それがこれ以上気まずくならないための方便であることも分かっていた。
離れていく拓海の姿が小さくなるほどに、速まっていた心臓の鼓動も徐々に落ち着きを取り戻して鎮まっていく。辺りの静けさと共に冷静さを取り戻すと、再び空の顔が浮かんでくる。
勢いで空の家を飛び出してきてしまったけど、声を上げたことに後悔はしていなかった。空に対する拓海の強い想いは知っていたから、それが空に伝わっていないのは悲しかった。
ただ、結局話が進展することなく球技大会当日を迎えることになってしまったことに不安がないと言えば嘘になる。
けど同じくらい、大丈夫だと力強く言ってくれた拓海の言葉も、信じたいと思った。
それに、明日の試合は拓海の退部も懸かっている。いくら拓海が強いとはいえ、バスケ部員のいるクラスとあたる可能性もあるので、確実に勝てる保証なんてない。大船部長はたとえ負けてしまったとしても退部になんてさせないだろうが、青田はきっと納得しないだろう。また裏で拓海に圧力をかけてくるに違いないと凪咲は思った。
空にとっても、拓海にとっても、明日の球技大会は二人の
そんな中で、二人のために自分になにができるのか、凪咲にはまだわからなかった。
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