第23話 思わぬ依頼
六月も残すところあと二日。
いよいよ球技大会を明日に控えた今日、凪咲のクラスでは、しかし話題は来週のイベントの話で持ちきりだった。
町を挙げて開催される一大イベント、『七夕祭り』に向けて、校内には一緒に行く相手を誘う声や、意中の相手が誰かと約束を取り付けていないか目を光らせている生徒があちこちにいた。
なんでも、祭りの最後に打ち上げられる花火を好きな相手と一緒に見ると、必ず結ばれるといわれているとかなんとか。
そのせいか、夏休み前ということも相俟って、祭りの後の校内には異様にカップルの数が増えるのだそうな。もっとも、毎年その日は店の手伝いでてんてこ舞いの凪咲には無縁の話なのだけど、と心の中でホロリと涙を流す。
そんな凪咲とは反対に、玲夏なんかはどこ歩いていても声を掛けられるし、夏澄はどちらかというと女子からのお誘いが多い。そして、やはり拓海の人気ぶりは凄まじかった。朝から数十人が校門で待ち構えていたかと思えば、休み時間毎に他のクラスや学年の女子に呼び出されては口説かれていた。拓海は友達と行くと言って全て断っているそうなのだが、何度呼び出されても、毎回ちゃんと話を聞きに行くのは偉いなぁ、と凪咲は感心していた。
拓海と同じくらい人が押し寄せてくると予想されていた空だが、あいにくと本日は欠席だった。ちょっと安心したが、それ以上に真後ろの空席が落ち着かなかった。
――友達のアンタに黙ってどこかへ行ったりしないことは、約束する
あの言葉は嘘ではないと信じているが、やはり顔が見られないと不安は残る。
それに、球技大会は明日だというのに、まだ空の参加を説得できていない。無理を言ってバスケ部部長の大船にレギュラー入りを検討してもらえることになったのだから、このチャンスを無駄にはしたくない。空には絶対に参加してほしい。
そのためにはなんとしても今日中に説得しなければならないのだが、そうなると、連絡先を知らないので、空の家に直接伺うしかない。けど、いきなり行ったら迷惑ではないだろうかという心配もあった。
そうして悶々としながら一日を終えた放課後、突然、沙由里に呼び出された。
以前だったらどんな用件でも彼女と談笑できることが嬉しくて、浮き足だって飛んでいったが、いまは変に身構えてしまう。それでも呼ばれた以上は行かなければならない。凪咲は心を落ち着かせて職員室の扉をくぐる。
「失礼します。さゆ……浜岡先生に御用があって来ました」
一言告げて、沙由里の机に向かう。
「呼び出しておいてごめんなさい。少し待ってもらえるかしら」
凪咲が行くと、沙由里はノートパソコンになにやら文章を打ち込んでいた。凪咲は「はい」と答えて、パソコン画面を見つめる沙由里の横顔を眺めながら、カタカタとキーボードを叩く音に耳を傾けていた。
美人だなぁ、と凪咲はあらためて彼女の横顔を見てそう思った。キーを打つ指は細長くて綺麗だし、睫毛も長い。鎖骨に被さる栗毛は、自然に任せるだけでは作れないふんわりとしたボリュームと艶があり、細かな手入れが窺える。しかも、スタイルも抜群だ。
そんな周囲の目を惹く魅力をこれでもかというくらいその華奢な身体に武装したうえで、教師としての彼女は、凜とした佇まいに、生徒ひとりひとりと真摯に向き合う芯の強さと信念も持ち合わせている。
悔しいけど、私が彼女に勝てるものはひとつもない。沙由里の魅力を目の前にして、凪咲は一人打ちのめされていた。
やがて、一区切りついたのか、沙由里はキーボードを叩く指を止めて凪咲に振り返った。
「ふう。待たせてしまってごめんなさい。夏花さんに来てもらったのはお願いしたいことがあったからなの」
「お願い? 私に?」
沙由里はふわっと微笑んで頷くと、机の上からA4サイズくらいの茶封筒を一枚、凪咲に差し出した。
「この封筒を、朝海君の家まで届けてほしいのよ」
「えッ!?」
なんで、私に?
「朝海君にどうしても今日中に渡しておきたい書類があったんだけど、彼、今日休みじゃない? けど私、急遽入った仕事で手が離せなくなっちゃって、彼の家に届けられるのが遅くなってしまいそうなのよ」
たしかに先程からものすごく忙しそうだな、と凪咲は机の上のパソコンと山積みの資料に目を遣る。
「そこで、本当に申し訳ないのだけど、クラスの中で朝海君の家から一番近い夏花さんに届けてもらおうと思って来てもらったんだけど、お店のお手伝いで難しいかしら?」
「あ、ううん。お店は大丈夫。けど……」
本当に私が届けていいのかな? 自分以外の女子が彼の家に行っても構わないのだろうか? それとも生徒なんて自分の相手にならないということだろうか。たしかに、先程あらためて彼女の魅力に打ちのめされたばかりだ。
ただ、凪咲の方も、ちょうど空のところへ行くためにあと一歩の後押しが欲しかったので、正当な口実をもらえてありがたいところもあった。なので、
「うん、わかった。まかせて」
そう頷いて、茶封筒を受け取った。
「ありがとう、夏花さん。あとついでに、彼の様子も見てきてくれるかしら」
そう言って凪咲を見送ると、沙由里は再びパソコン画面に釘付けになった。
空の家に行く前に、拓海も誘ってみようと思った。
公園で一緒に空を救おうと約束したばかりだし、バスケの球技大会に誘うなら、拓海もいたほうがいいだろうと思ったからだ。たしか今日は男子バスケ部は部活が休みだと夏澄が言っていたし、ちょうどいい。
そう思いながら教室に戻ってみると、すでに放課となった後では数人のクラスメイトを残すのみで、拓海の姿はなかった。もう帰ってしまったかなと残っていたクラスメイトに訊ねてみると、なにやら目つきの悪い部活の先輩から部室に呼び出された、とのことらしい。すぐに、前に難癖をつけてきた青田という先輩の顔が浮かんでくる。なにやら嫌な予感がして、凪咲は急いで教室を出て、部室に向かった。
部室の前まで来たところで、中から声が聞こえてきた。
青田の高笑いと、拓海の冷めたような声。やはり嫌な予感は的中していた。
凪咲は扉にそっと近づき、中の会話に耳を澄ませた。
「おい、拓海ィ~。明日が本番だがよ、ほんとにその朝海ってヤツは出てくんのかよ?」
青田の声が聞こえてくる。
「はい、絶対に」
「つーか、お前マジで大船の言ったこと本気にしてんのかァ」
「どういうことっすか」
「一年以上部活サボって、しかも来るか来ないか分かんねぇんだろ? 普通に考えて、そんなヤツ、レギュラーどころか部の復帰すら認めるわけねぇだろうが」
扉の前で凪咲の体が震える。
―――復帰も認めないって、どういうこと?
「あいつはサボってたんじゃないっすよ。事情があって、学校に来られなかったんです」
あくまで冷静に返す拓海。
「どっちにしろ同じだろぉが」
声を荒げて、ガァンッ、と青田は苛ついたようにロッカーを殴りつける。拓海は怯むことなく、佇まいを崩さない。
「それに、部長はああいった大事な約束を冗談で言ったりする人じゃないっすから」
「ほーう」
青田から薄ら笑いが消える。
「だからって、お前と大船だけで勝手に決めた約束に納得してない奴だっているんだよ。だからよぉ――」
青田はすっと拓海に歩み寄り、拓海の耳元に顔を近づけると、悪魔のような笑みを浮かべて囁いた。
「明日もし優勝できなかったら、拓海……お前も一緒に部活辞めろ」
それは、扉の向こうにいる凪咲にもはっきりと聞こえてきた。凪咲は声を上げそうになった口を咄嗟に手で押さえる。
「テメエの勝手を通そうってんだ。それくらいの覚悟は見せてもらわねぇとなぁ。それに、全国行ったうちのエース様なら、素人の混じった学校の球技大会で優勝するなんざ、簡単なことだろ?」
クツクツと笑いながら言う青田。だが、拓海は一切佇まいを崩さずに、
「ええ、いいっすよ。もとよりそのつもりなんで」
落ち着き払った口調でそう断言した。
それがおもしろくなかったのか、青田は笑い声を止めて、拓海を睨み付けた。その鋭い視線を躱し、拓海は一礼をして踵を返す。
やばい! こっち来る!
すぐに扉から身を離すも、隠れられる場所を探してあたふたとしている間に部室の扉が開き、
「あ――」
出てきた拓海とばったり目が合った。凪咲の慌てた様子から、拓海はすぐに状況を理解した。
「聞かれちゃった……?」
「……うん。ごめん」
凪咲も大人しく観念した。だが、それよりも、
「どうしよう! 優勝できなかったら春沖くんまで部活辞めろって……私が無理言って部長さんに頼んだから……」
「夏花さんのせいじゃないよ」
拓海は強く、はっきりと断言する。
「夏花さんは、ただ空のために一所懸命だっただけだよ。俺が思いつかなかったことを、わざわざ自分から部長に頭を下げてまでね」
凪咲の覚悟が、自分を動かしたのだと言わんばかりの表情だった。
「それに――」
と、拓海は不敵な笑みを浮かべる。
「負ければ、だろ。俺、負ける気ないから」
「でも――」
「あ、そうだ。余計な心配掛けさせたくないから、今の話、空には内緒にしておいてね」
凪咲の言葉を遮るようにそう言って、拓海はこの話を終わらせた。
「ところで、夏花さんはどうして部室に?」
「あ、うん、実はね、この書類を朝海くんの家に届けてほしいって、沙由里ちゃん先生に頼まれたの」
手に持っていた茶封筒を拓海に見せる。
「それで、春沖くんがよければ、一緒に明日の球技大会の話もしに行こうと思って」
「うん、もちろん行くよ。すぐ荷物取ってくるから、先に校門で待ってて」
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