第22話 雨の向こう
雨に打たれながら、凪咲はただ無心で走った。
見たもの全てを振り払うように。
肺の中の酸素が尽きようとも。
前にも、後ろにも、どこへも振り返らずに、全力疾走で雨を浴びた。
知っていたはずだった。
わかっていたはずだった。
覚悟も、できていたはずだった。
それでも、この眼に映してしまえば、自分の心はこんなにも、脆い。
やがて、限界が訪れたところで足を止め、大きく肩で息をする。
濡れたアスファルトから香る生温い空気が肺を通り抜ける。呼吸を整えてから、しばらくしてゆっくりと歩き始めた。
真っ黒に塗れたアスファルトを見つめながら、弁当箱の入ったバッグを強く握り締めた。
「夏花さーん」
遠くから誰かに呼ばれた気がした。
空だろうか、という思いが咄嗟に浮かんできた。そこに期待と困惑が混じっていることにすぐに気づき、情けなくなった。
「おーい! 夏花さーん」
今度は、はっきりと確かに聞こえた。
顔を上げると、気づけば前に空と一緒に子供達に混じってバスケをした公園の前にまで来ていた。
声は公園の中から聞こえてきた。
「夏花さーん! こっちこっちー」
公園内に顔を向けると、屋根付きのベンチから、拓海が大きく手を振りながら、こちらに呼び掛けていた。片手にはバスケットボールを抱えている。
凪咲と目が合うと、彼は手招きで凪咲を呼び寄せる。放心したようにそれを見つめていた凪咲は、なにを考えるでもなく体を向け、よろよろと拓海のいる方へ歩き出した。
「偶然だね。夏花さんも傘忘れたの? あ、そこ濡れない?」
拓海はベンチに置いていた自分のエナメルバッグを下ろし、凪咲に隣に座るスペースをつくる。促されるまま、凪咲はそこに腰を下ろした。
「参ったよ。今日、部活が半日で終わったからさ、帰りにここで練習してたんだけど、突然土砂降りになってさ。まあ、通り雨だろうから、止むまでここで雨宿りしていこうと思ってね。夏花さんは散歩?」
「え? あぁ……うん、まあ」
曖昧に答える。
そんな凪咲の様子を見た拓海は、少し声を落として、
「大丈夫? なんか元気ないように見えるけど」
と、心配そうな表情で訊ねた。
「そうかな? 私は大丈夫だよ」
そう言った声が震えていたのは、凪咲自身だけでなく、拓海も気づいただろう。だが、拓海は「そっか」と言っただけでそれ以上は追及せず、持っていたバスケットボールを指先でクルクルと回しはじめた。
その回転を見つめていたら、なぜか気持ちが落ち着くように感じた気がした。そういえば、赤ちゃんのベッドにも、こんな風に規則的に回転する遊具がよく取り付けてあるし、もしかしたら人間の本能がそうできているのかもしれない、なんてことを思った。
「そういえばさ、球技大会の件、夏花さんの方はどう? 空、出てくれるって?」
凪咲はかぶりを振る。
「そっかぁ。俺もさ、毎日誘ってみてはいるんだけど、成果はないんだよなぁ」
溜め息交じりに拓海が言う。
思えば、拓海は空が復学した日から、彼を気に掛けていた。いや、もっと言えば、空が部活にいる頃からだから、凪咲よりもずっと長く彼を待っていたと言える。空が教室に入ってきたときも、一番に声を掛けていた。
だから、ふと、凪咲は彼に訊いてみたくなった。
もしかしたら、行き詰まった答えに、拓海の助けを乞いたくなったのかもしれない。
「あのさ、春沖くん……」
「ん?」
「もし……もし、だよ? もし、朝海くんがすごく遠くへ………そこへ行ってしまったらもう二度と私達と会えなくなっちゃうような所に自分から行こうとしているとしたら、春沖くんだったらどうする」
「外国とかってこと?」
「まあ、そんな感じ」
「そうだなぁ」
いまだ弱まる気配のない雨空を眺めながら、拓海はシュルルルとバスケットボールを指先で回転させる。
「俺だったら、それが空の望んだ道で、あいつの未来に繋がるなら、笑って送り出してあげたいかな」
「未来に、繋がる……」
「うん。もちろん会えなくなるのは寂しいけど、空にとって必要な選択なら、俺は応援してあげたいよ。……けど」
何かを含ませたような視線を凪咲に向ける。
「けど、もしそれが、空にとってよくないことなら……誰も望んでいない結末を引き起こすことになるなら、俺はなにが何でも止めるよ。たとえ、空本人にどれだけ拒まれてもね。取り返しのつかないことになったら、きっと一生後悔すると思うから」
拓海ははっきりと、そう言い切った。真剣な瞳が、彼の言葉の力強さを裏付ける。きっと、そのときに直面したら、彼は本当に言葉通りの選択をするのだろうと言い切れるほどの説得力があった。
「あ。あとは、最後にバスケやってから送るかな」
そう付け加えて、拓海は爽やかな笑みを浮かべた。それから再び視線を灰色の厚い雲に目を向けると、
「やっぱり、空はなんか思い悩んでることがあるんだね」
「え?」
やっぱり……?
「空が復学した日からちょっと気になっててね。バスケ部に顔出さないのもそうだけど、クラスの行事とか集まりにも絶対に顔出さないし、教室でみんなと話しててもさ、どこか一歩身を引いてるように感じるんだよ」
指先で回転するボールを両手で掴むと、拓海は寂しそうな表情で目を伏せた。
「なんか、自分の足跡を残さないようにしてるっていうかさ。そのせいか、クラスのどこにもあいつがいないように感じちゃうっていうのかな」
わかる? と表情で確認するように凪咲に振り向く。凪咲は頷いた。
彼の言わんとしていることは、凪咲にもよくわかった。
クラスの何気ない日常を収めた写真なんてものがもしあったとしたら、後で見返してみると、その中に空の写っている写真は一枚も無い、そんな感じだ。
そしてそれが、彼自身が意図してのことなのだと、拓海もなんとなく感じていたのだ。
「夏花さんは、なにか知ってる?」
そう訊ねる拓海の口調は、凪咲と空の力になりたいという意志を含んだ確信を持っていた。
だが、凪咲はどこか諦観めいた表情を見せて、呟いた。
「私もね、よく知らないんだ……」
思わぬ返答に拓海は咄嗟に言葉が出てこなかった。
凪咲は続ける。
「近づきたいとは思ってるんだけどね。でも、どうしても、最後まで気持ちを強く持てないみたいでね。絶対に投げ出しちゃいけない、やるべきことがあるのに」
凪咲は自嘲気味な笑みを浮かべる。
「良い結末になるか。最悪の結末になるか。それを左右する立場にいるって自覚があるのに、ちょっと嫌なことがあるとね、すぐ目を背けて逃げ出しちゃうみたいなの」
自身の恋愛と、空の未来を綯い交ぜにしてはいけないことはわかっている。どちらを取るべきかなど、悩むまでもない。
それなのに、割り切ることができない自分は、弱くて酷い人間だ。望まぬ未来が訪れたとき、自分の所為だと糾弾されるべき畜生だ。
「ほんと、自分勝手で、情けないよね」
雨はいまだ降り止まないが、遠くの空では雲の隙間から光が差し込んでいた。拓海は、そんな光芒に目を向けると、
「そんなのべつに、普通のことなんじゃないかな」
あっけらかんと、そう言った。
「人間なら誰しも大なり小なりそうゆうのあるでしょ。俺だって練習キツいと途中で逃げ出したくなるし、クラスに悩みを抱えている人がいても、力になれないこともあるよ」
「春沖くんでも、そういうことあるの?」
「しょっちゅうあるよ。俺、そんな器用な人間じゃないしさ。だから、試合で使ってもらえないこともあるし、影でお節介だってウザがられたりすることもあるのは知ってる」
「それでも、去年、全国大会に行けたのは春沖くんの活躍があったからだと思うし、クラスでも春沖くんに感謝している人はいっぱいいるよ」
「ありがとう。でも、俺一人じゃ全部はできなかったよ。だから、自分じゃムリって思ったら、すぐ仲間を頼ってた」
「仲間を?」
「そ。バスケだったらチームメイト。クラスだったらクラスメイト。自分にできないことは仲間に頼ればいい」
拓海は、手を差し伸べるように凪咲に微笑みかける。
「だから、俺にも夏花さんのやるべきことっていうの、手伝わせてよ。一緒に、空の力になろう」
そう言った拓海の笑顔は、凪咲にはとても頼もしく見えた。
気づけばすっかり雨は止み、雲の隙間から青空が覗いていた。
「ありがとう、春沖くん」
拓海は小さく頷いた。
「さて、雨も止んだし、腹も減ったからそろそろ帰ろっかな。夏花さんも、お店の手伝いあるもんね」
「うん。けど夜から再開だから、時間は大丈夫だよ。あ、そうだ」
凪咲は、手元にあったバッグから弁当箱を取り出すと、
「これ、よかったら食べない? 今日のお礼に。店の余り物詰めただけだから申し訳ないんだけど」
「え、いいの? やった! 夏花さん家のメシ、美味しいからなぁ」
膝の上で弁当箱をひろげる。バッグは雨でびしょびしょに濡れてしまっていたが、弁当箱の方はナプキンで包んでいたので無事だった。ただ、公園まで走ってきたせいで、中身が少し偏ってしまっていたが。
拓海は、弁当の本来の行方を凪咲に訊ねることはせず、美味しそうに食べていた。
自分と拓海。空を助けたいという気持ちに違いはない。
志を同じくする者は多いに越したことはないし、それだけ空の居場所が増えるということでもある。だから……
――拓海の力も借りられれば、きっと良い方向に向かっていくはず。
このときはそう思っていた凪咲は、公園の外から、手に二本の傘を持って凪咲達を眺めている人物がいることに気づかなかった。
雨上がりの空から差し込む陽の光が、その人物の傘を持った手に嵌められた指輪を照らし、ゆらりと淡い光が炎のように揺らめいた。
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