第14話 宝物
そして放課後―――
帰宅する生徒達に混じって、空と並んで学校を後にする。
帰宅する生徒の中には、友達同士でふざけ合いながら帰る男子や、気合いを入れて合コンに向かう女子グループ、恋人同士で手を繋いで歩く男女などがいた。
私達は周りからどうみえているんだろう?
凪咲はそわそわしながら、制服のポケットに手を入れて隣を歩く空の顔を横目で見上げる。目線を隠す少し長く伸びた前髪と、整っているが感情の読みにくい表情に加えて、落ち着いた佇まいが大人びた雰囲気を醸しだし、そのまま彼の魅力に繋げていた。夏服で露わになった腕は色白く、血管の浮かび上がった前腕は男子であることを強く意識させられた。
って、見惚れてる場合じゃないよ、私! なんか喋んないと!
「そういえば、朝海くんもさっき練習見学してたみたいだけど、どこか調子悪かったの」
「いや、俺の場合はサボり。見てるだけは退屈だったから、ちょっと風にあたってたんだ」
サボりだったんかい。でもなんでもなくてよかった。
「春沖くんから聞いたんだけど、朝海くんってバスケ部だったんだってね」
「まあ、一週間くらいだけだったけど」
「すごく上手いんだって言ってたよ! 本番、楽しみだね」
凪咲が拳を握り締めて言うと、空は前を向いたまま僅かに目を細めた。
「どうだろうな。それに、球技大会は当日も見学するつもりだし」
「え、そうなの? どうして?」
「その日休んだりして、その場にいないかもしれないからな」
薄く微笑んで言う空の横顔に、凪咲は妙な違和感を覚えた。
嫌な違和感だった。
「それに、学校内の球技大会なんて、拓海がいりゃあ十分優勝できるさ。うちの学校にあいつより上手いヤツなんていないだろうし」
「朝海くんがいるよ。二人はいつも競い合ってたって聞いたよ」
「どうだったかな。まあ、もう随分とボール触ってないし、とっくに追い抜かれてるだろうな」
と、どこか他人事のように言う空。そのまるで興味なさそうな横顔が、凪咲を不安にさせる。
「あ、でも部活でまた一緒にできるよ! いまは復学したばかりでいろいろあると思うけど、落ち着いたらバスケ部に戻るんだよね」
努めて明るく振る舞いながら、どこか縋るように訊ねる。
「いや、部活にはもう戻らないよ」
どことなく明言することを避けた話し方をする彼が、珍しく即答した。
「え、なんで!?」
思わず身を乗り出して訊ねる凪咲に、空はひとつ間を置くようにすっと薄く微笑むと、
「なんだ、質問してばっかだな」
「あ」
しまった。つい勢いでいろいろ訊いてしまった。
本当はもっといっぱい訊きたいことはあったのだが、ひとまず自重することにした。
「じゃあ、次は俺の番だな」
そう言いながらも、空の質問は当たり障りのないものばかりだった。
しばらく他愛ない話をしながら二人で歩いた。
途中で気づいたが、学校を出てから空は常に凪咲の道路側を歩いてくれていた。そのさりげない気遣いが嬉しかった。
「家、もうすぐだっけか?」
学校を出てから、いくつかの信号を越えたところで空が訊ねる。凪咲は家の近くにある誰でも知っているような公園や施設名を元に場所を説明していった。
「それでね、そこの住宅街の片隅にある定食屋が家なの。そのまんま『夏花食堂』って言うんだけど……って知らないよね。小さな店だし」
「なんだ。案外ウチと近いな。たしかに店のことは知らなかったけど、もしかしたらその店の前通ったことあるかもな」
「え、ほんと? 朝海くんち、どこらへんなの?」
「その通りから続く海岸沿いの道を、ちょっと行った先にあるアパートだ」
「――え」
海岸沿いという言葉に、ぞくりと凪咲の背筋が凍りつく。
いま空の言ったその海岸沿いの道とは、昨日、凪咲が、海に身を投げようとする彼の姿を目にした海岸沿いの道だったからだ。
全身から血の気が引いていくのを感じながら、昨日の出来事が頭の中でフラッシュバックする。空の家とあの場所が目と鼻の先にあるということが、どうしようもなく怖かった。またなにか恐ろしいことが起こってしまうんじゃないかという不安が、嫌でも溢れてきた。
「どうかしたか」
空が覗き込んでくる。
「いや……」
唇が震える。続く言葉が出て来なかった。
空も、凪咲の様子から何かを感じ取ったのか、追及することはせず、しばらくの間無言で歩いた。
やがて、家まであともう少しというところで、最後の十字路に辿り着く。
「ここはどっちだ」
このまま真っ直ぐに進んだ前方の交差点と左手側にある交差点を目線で指しながら空が訊ねる。
凪咲は少し迷った。本来はこのまま真っ直ぐ前方の交差点を渡って行くのだが、この道は、その先にある下り坂を進んでいくと、海が一望できる高台の道に出る。当然、昨日のあの海岸も見えてくる。海に近いところに空と行くのが怖かった。海を目の前にすることで、彼の決断を助長してしまうのではないかと思ったからだ。
凪咲は足を止め、左手に振り返ると、
「こっち、かな」
交差点に向かって歩き出す。少し遠回りにはなるが、こっちの道からでも帰れなくはない。
「ん」
凪咲のあとに、空も続いた。
遠回りをしたところで、彼の心情に大した影響を与えることなどできないことは分かっていた。
問題を先送りにしているのと同じことだと分かっていた。そ
れでも彼の力になりたいと思っても、自分になにができるのか、どこまで彼に踏み込んでいいのかわからなかった。
懊悩する凪咲の隣で、ふと空が足を止めたことで、はっと我に返る。
振り返ると、空が何かを見上げていた。凪咲は空の視線の先を辿る。見覚えのある施設が聳え立っていた。
「あ――」
これまで幾度となくここへ通っていたのに、ここに来るまですっかり忘れていた。先程の交差点をこちらの道の方へ行くと、この場所に辿り着くのだったことを思い出す。
母が入院していた病院だった。
町の高台にある病院で、地上四階建ての病床数は四百床ほどの総合病院だ。
この場所を最後に訪れてから、もう一年以上が経った。
中学を卒業して、世間では春休み真っ只中だった。
その日、凪咲は制服の採寸のため、登校していた。
母の容態が悪化したと養次から学校に連絡があったのは、その最中だった。教師に呼び出されて、電話を受けた凪咲は、事情を説明してすぐに病院へ向かった。
嫌な予感はあった。
このところ母の体調は芳しくなかったからだ。本当は制服の採寸に行くのにも迷っていたが、母に制服姿を見たいから行ってきなさいと言われたので、登校することにしたのだった。やっぱりわがままを言ってでも一緒にいるべきだった、と病院へ向かうタクシーの中で凪咲は後悔に身を震わせた。
間に合ってくれ。お願いだからまだ逝かないでくれと、心の中で何度も何度も祈った。
だが、凪咲が病室に訪れたときには、すでに母はこの世を去ったあとだった。
本当に今し方のことだったらしい。母は最後まで父と凪咲の名前を呼んでいて、最後は安らかに眠るように亡くなったのだと、あとで養次に聞いた。
間に合わなかった――
ベッドの上で、もう二度と目覚めないとは思えないほど安らかな寝顔の母を前にして、凪咲を襲ったのは途方もない喪失感と、どうすることもできない深い悲しみだった。
母は、穏やかでそばにいると心地よい温かさで包み込んでくれる人だった。
凪咲が落ち込んだりしたときも、優しく微笑んで抱きしめてくれる母に、これまで何度も甘えてきた。
もう二度と、彼女に甘えることはできない。
昨日まで、いつものように微笑んでいた母の姿が嘘だったかのように突然の別れだった。
ある程度の覚悟はしていたつもりだった。
けど、いざその瞬間が訪れてみれば、不安を紛らわすためのおまじないのようなものにすぎなかったのだと知った。
そしていま、再び似たような別れが目の前にちらついている。
ずっと好きだった人が海に身を投げようとしたことを知っていながら、その人の心が自分以外の人に向けられているという理由で目を背けてしまった。
当たり前だと思っていた笑顔を突然喪う恐怖を知っていながら、私は手をこまねいた。
かけがえのないものが、いつまでものそばにあるという保証なんてないというのに。
「ねえ、朝海くん……」
病院に目を向けたまま、凪咲はひどく落ち着き払った声音で空に声を掛ける。
空は声に出して返事をせず、凪咲を見遣る。
「どうして、昨日あんなことしたの」
「なんのことだ」
「朝海くんが海に身を投げたことも、追い掛けて私も海に飛び込んだことも覚えてる。意識を失ってしまった後どうなったのかはわからないけど、あれが夢なんかじゃないことははっきりと覚えている」
感情を押し殺したような冷然とした口調が、逆に強い意志として空に伝えられたのか、空はそれ以上言葉を濁すことはせず、観念したようにひとつ鼻で息を吐いて、言った。
「もしそうだったとして、あんたになにか関係あるのか」
それは、言葉ほどに突き放すような言い方ではなく、凪咲と似たような感情を押さえた口調だった。ともすれば試すかのような、あるいはなにかを確かめるかのようにも聞こえた。
「うん、関係ないよ」
凪咲は物腰変えずに続ける。
「悔しいけど、私は関係ない。昨日のことも、私が勝手にしたことだから。けど、それで私が何もしない理由にはならない。ただ見ているだけでいい理由にはならないよ……」
堪えきれないといように、次第に声が震えてくる。空は口を挟まずに凪咲の話を聞いていた。
やがて、青かった空が徐々に橙色を帯びていき、病院の前で佇む二人の影を伸ばしていく。日中よりも涼しくなった風が吹き抜け、凪咲と空の髪を揺らした。
凪咲は振り返り、自分を見つめてくる空の儚げな瞳を真っ直ぐに捉えると、抑えきれずに溢れてきた感情に身を委ねた。
「だから、私はもっと朝海くんのことを知りたい! 朝海くんが悩んでることや不安なことがあるなら、一人で抱え込まずに話してくれたら嬉しい。これからも、関係ない距離のままでいて、その間に朝海くんが手の届かない遠くに行っちゃうのはいやだから……もう二度と、大切な人がいなくなってしまうのは絶対にいやだから、私は朝海くんの力になりたい」
瞳を潤ませ、一息に吐き出す。
空は少し驚いたように目を瞠る。そして、ゆっくりと視線を逸らし、夕焼けに染まる遠くの海に目線を送った。
少しの沈黙があり、やがて、
「俺の、力になりたいって……」
小さく呟いた。
「なんでも話してくれって言われて、いきなり自分のことあれこれ話せないだろ……友達でもない相手にさ」
そう言って振り向く空の瞳を見て、凪咲ははっとした。
その瞳は決して凪咲を突き放すものでも、疎んじるものでもなかった。
覚えているか?
秘めたる彼のサインを受け取る。
彼は覚えていてくれたのだ。
もちろん。忘れられるわけないよ
それがなにより嬉しくて、心中で頷く。
絶対に忘れてはいけない約束が、私達の間にはあった。
たとえ彼の心が別の誰かに向いていたとしても、あの約束だけは私が果たさなければならない。
私にしか果たせないことだから。
橙色に染まるアスファルトの上に伸びる二つの影。
歩み寄る凪咲の影が空の影と重なり合う。
凪咲は鞄の中のペンケースから消しゴムをひとつ、取り出した。温かくて落ち着く色をした、小さな出汁巻き玉子の消しゴム。
それを掌の上にのせて空に差し出す。
そして、ずっと宝箱にしまったままだった言葉を優しく、力強い意志をもって口にした。
「私と、友達になってください」
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