第13話 空模様

凪咲が教室に戻った頃には、残る授業は五限のホームルームだけとなっていた。


突然倒れたことで夏澄と玲夏からえらく心配された。

宥めるのに大変だったが、二人とも自分のことのように心配してくれて嬉しくもあった。


落ち込んでいるのが伝わってしまったのか、最後に「なんか元気ない?」と訊かれて、返事に迷った。

二人には話そうかとも思ったが、結局はなんでもないと返した。


沙由里のところへ報告にいった際、彼女にも同じように訊かれたので、同じように返事した。

平静を装うとしたが、もしかしたらどこか余所余所しくなってしまったかもしれない。


幸い、沙由里は怪訝そうな表情を一瞬見せながらも、それ以上は追及せず、最後まで心配してくれていた。

やっぱりいい先生だな、ということを突きつけられた凪咲の表情はどこか諦観にも似た笑みを浮かべていた。


今日のHRは来週末にある球技大会の練習とのことで、女子の着替える教室からはすでに男子の姿はなく、授業前に空に声を掛けることはできなかった。


球技大会の競技は、男子がバスケかサッカー、女子がバスケかソフトボールから選択して、屋内外でそれぞれ半々に別れて行う。その方が時間効率がいいからだそうだ。


凪咲達はもちろんバスケを選択した。

優勝クラスには副賞として缶ジュースが贈られるのだが、男女バスケ部の両エースである拓海と夏澄を擁する凪咲のクラスは、本気モードで優勝を狙いにいくつもりだ。


それに伴い、練習もみんな気合いが入っている。

ちなみに凪咲は今日のところは安静のため見学となった。


体育館の隅で女子の練習を見学しながら、凪咲は度々横目で男子の方の練習に目を向けていた。

だが、そこに空の姿はなかった。


「うおっ! すっげー拓海。ダンクかよ」


ちょうど拓海がダンクシュートを決めたところで、男子の話し声が聞こえてきた。


「おまえスゴすぎだって。拓海がいりゃあ、もうウチのクラス、優勝確実じゃね」


クラスの男子が拓海の肩に手を置いて労いながら言う。


「んな簡単にはいかねーって。三年の先輩とか強い人ばっかだから」


拓海は呼吸を整えながら体操着の裾で汗を拭う。

めくれた隙間から一瞬彼の鍛えられた腹筋が目に入ってきて、凪咲は慌てて視線を逸らした。


「それよりさ! 空見なかった?」

「朝海? さあ……教室移動するときはいたと思ったけど」

「そっか。どこいったんだろ、あいつ」


バスケの方にいないってことは、もうひとつのサッカーの方にいるのかもしれない。

拓海達の会話に耳をすませていた凪咲は、ふと見に行ってみようかという考えが頭に浮かんだ。


いま彼に会うのはつらいけど、練習中ならタイミングを見計らって声を掛ければ、ササッとお礼を言えるかもしれない。


少し迷ってから立ち上がり、周囲の目を盗んでこっそりと体育館を抜け出した。



グラウンドでは男子のサッカーと女子のソフトボールの練習が行われていた。

凪咲はフェンスに近づいて、目を懲らして見てみたが、サッカーの方にも空の姿はなかった。


どこにいるんだろう? 

念のため、ソフトボールの方も見に行ってみたが、やはりいなかった。


しばらく周囲をうろついてから、ひとまず体育館に戻ろうとしたときだった。


あ――


ソフト場の裏手を歩いていたところで、植木の影にある花壇の縁に座る空の姿を見つけた。


不意の遭遇に思わず足を止め、凪咲は離れた位置で彼の正面に立つ。

凪咲の視界から彼以外の一切が消え去り、視線が空に釘付けになる。


風が奏でる葉擦れの音色も、グラウンドから聞こえてくる喧噪も、大きく跳ねる心臓の鼓動に遮られて、まるで耳に入ってこない。


そんな心地よい錯覚に身を寄せかけた刹那――空と沙由里、今朝の二人の光景が凪咲の脳裏を射貫き、陽気な胸の鼓動が瞬時に冷めていった。


すっと、空を見つめていた目を細める。

ただ、運んでもらったお礼を言って終わりにする。事務的に事を済ませてしまおうと、凪咲はゆっくりと空に近づいていった。


煉瓦造りの花壇の縁に腰掛ける空は、太腿の上に両肘をついた姿勢で手を組み、なにをするともなく地面を見つめていた。

彼は凪咲の接近に気づいていない様子だった。


やがて、少し距離はあるが、声は届くであろう位置で凪咲は足を止める。

先程まで事務的に済ませてしまおうと考えていたのに、いざ本人を目の前にしたら緊張ですぐには声が出てこなかった。

一度深呼吸をしてから、


「あ、あのっ! 朝海くん!」


空に呼び掛ける。

少し声が震えてしまった。


凪咲の声に、空が面を上げる。

視線が合う。

空の瞳は、視線は合っているのに凪咲を見ていないような、捉えどころのない眼をしていた。


「なに?」


空はすっと立ち上がる。

広い肩幅とすらっと伸びた長い脚が、デザインの微妙な学校指定のジャージを見事に着こなしていた。


「あの、私、今朝廊下で倒れちゃったみたいで……そのとき朝海くんが私を保健室まで運んでくれたって、あとでアキちゃん先生に聞いたの。だからその、運んでくれてありがとう」


少し恥ずかしげに凪咲は言う。

空は「ああ」と、それだけ言って目を伏せた。なんとなく、どこかがっかりしているようにも見える気がした。


伝えることを伝え終えてしまった。

本当は話したいことはもっとたくさんあったのに、いまはなにも言葉が出て来なかった。


再び空の視線が凪咲に戻る。

少しの妙な間のあと、言葉を詰まらせている凪咲に、「それだけ?」と空が訊ねる。


どう返事しようか迷った。

それだけなわけがなかった。

彼のことなら、どんな些細なことだって知りたかった。

話したいこと、訊きたいことを全部口にしたら、きっと一日あっても足りない。


なのに……



「……うん」


結局はそう答えてしまっていた。

言ってすぐに、どこまでも臆病で意地っ張りな自分に嫌気がさした。


でも、それ以外にどう答えればよかったのか、いまの凪咲には分からなかった。

空の顔を見るのが辛くて、彼の返事を待たずに「それじゃあ」といって踵を返す。その背に、名残惜しさを乗せながら。


一歩、二歩と彼から遠退いていくほどに、それが物理的な距離だけでなく、彼とのもっと大切にしたかった距離も離れていくような気がした。


もともと特別近かったわけではないけれど、いまは一層遠くなっていくように感じた。

こうなることを自分で選んでしまったということと、それが望んでいたものとは真逆だったことも助長して。


泣きそうになった。

泣きたかった。


ここが他に誰もいない空間だったら、たぶん声を上げて泣いていたと思う。

凪咲はジャージの裾を強く握り締める。


「――いッ!」


再び世界から音や景色が消える。

何も考えられないし、何も聞こえないし、何も見えてこない。

早くこの場を去ってしまいたかった。


「――けろッ!」


そうだ、今度こそ夏澄ちゃんと玲夏ちゃんに全部話してみようかな。

二人を利用するみたいになっちゃうけど、二人の優しさに甘えることしか、いまの惨めな自分を慰める方法が分からなかった。


ああ、でもたしか今日は二人とも用があるから一人で帰る日だったっけ。

夏澄ちゃんは部活頑張ってるし、玲夏ちゃんも委員会の活動で忙しいし仕方ない。ひとりで、帰ろう。


「避けろッ! 凪咲ッ!」


「え?」


不意に聞こえてきた自分の名前を呼ぶ叫び声に振り返ると、凪咲の視界に頭上から迫る何か白い物体と、そして、その白い物体を遮るように見覚えのある淡い光りが飛び込んできた。


身構えるひまさえなかった凪咲の眼前で、ドゴッと鈍い衝突音が響く。

そこには淡い光を放つ指輪を嵌めた大きな手と、その手を辿った先に、凪咲を庇うようにして立つ空の姿があった。


「朝海くん……?」


何が起きたのか分からないでいると、凪咲の目の前にある空の掌からぼとっと白い物体が地面に落下した。

見ると、それはソフトボールだった。


先程の一瞬に見えた眼前に迫る白い物体の正体はこれだったのだと、凪咲は理解した。同時に、自分に直撃するはずだったところを、空が助けてくれたということも。


「ギリ、間に合ったか」


肩越しに空が呟く。


「大丈夫だったか?」

「う、うん……」

「そうか」

「おーい! 凪咲ちゃーん、朝海くん! ごめんねー! 大丈夫ー?」


ソフト場の方から、練習をしていたクラスメイトの女子が手を振って走ってくる。空は凪咲を庇った手とは逆の右手でボールを拾うと、返事代わりにひょいっとボールを投げ渡した。

その様子から、彼女も一安心したようにお礼を言って戻っていった。


クラスメイトの女子が去った後で、凪咲ははっと冷静になった頭で、すぐに空の左手に注目した。


「朝海くん! 手、大丈夫ッ!? 痣になってない」


空の左手をとる。

当然、彼の薬指に嵌めてある指輪は目に入っていたが、意識はまるでそこに向かなかった。それよりも空の掌の方が心配で気が気ではなかった。

よく見ると、少し赤くなっている気がした。


「ごめんなさい、私を庇ってくれたせいで……早く冷やさないと」


凪咲も前に体育の授業でソフトボールを持ったことがある。

あんな堅い素材なうえに、フェンスを越えるほどの高さから落下してきたものが直撃したのだから、被弾した際の衝撃は凄まじかったはずだ。


もしかしたら骨にヒビが入っているかもしれない。

そんなことが頭を過ぎり、凪咲は顔を青ざめさせながら空の手に大事がないかを窺う。


本人以上に慌てふためく凪咲の様子を見ていた空は、ひょいっと凪咲に掴まれていた左手を上げると、


「大丈夫だ。なんともないよ。まあ、たしかにちょっとは痛かったけど」


言いながら手を振って無事をアピールする。

だが、凪咲の顔色は未だに優れず、


「で、でも一応冷やしに行こう! 水道すぐそこにあるから」


そう言って、ボールが被弾していない方の手をとって、空を水道に連れて行く。

彼は何も言わず、凪咲に手を引かれるままついていった。


空の腕を掴んだ凪咲の左手薬指に嵌めてある指輪が、ゆらりと光った。



水道で手を冷やしている空を見届けると、


「私、保健室から氷貰ってくる! すぐ戻ってくるから、ちょっと待っててね」


それだけ伝えて凪咲は走っていった。

蛇口から流れるあまり冷たくない水に手を充てながら、空はポニーテールが犬のしっぽみたいに揺れる凪咲の後ろ髪を遠目に見つめた。



しばらくして戻ってきた凪咲は、空を近場の花壇の縁に座らせると、自分は空の正面に腰を下ろして彼の掌を冷やした。

ただ必死に掌を見つめ、大事に至っていないことを祈りながら。


少し経って、氷の冷たさを感じていた凪咲の手に、大きく温かな空の手が重ねられた。


「もう大丈夫だ。ありがとう」


凪咲の手をよける。

氷を隣に置いて、掌を凪咲に向けた。


「ほんとう? 触ったり、指曲げたりすると痛むとかはない?」

「なんともないよ。大丈夫だ」


凪咲を安心させるように、彼は優しく言った。

ほら、と空はひらひらと手を振ってみせる。確かに痛みを我慢しているようには見えなかった。


「ふう……よかったぁ」

「そっちこそ、大丈夫なのか」

「え?」

「何回呼んでも気づかないくらい、随分とぼうっとしてたみたいだけど」

「あ」


自分でも気づかなかった。

けど、思い当たる節を、彼にだけは話すことはできない。


凪咲が言葉に詰まらせていると、空が心配そうに顔を覗き込んできた。


「まだ、体調悪いのか」

「あ、ううん。それは本当にもう、大丈夫だよ」


答えてから、それは暗に別の理由があると言っているようなものだったと気づいた。

幸い、空はそれ以上の詮索はせず「ふーん」と訝しげに返事しただけだった。


「ならいいけど、そんなふらふらしてたらあぶねぇぞ。一緒に帰るヤツにちゃんと家まで送ってもらえよ」

「うん……あ」


と、そこで思い出す。


「ん? どうした」

「あ、えと、今日はたまたまみんな用があって、ひとりで帰るつもりだったから」

「ああ、そうなの」


空は凪咲から目を逸らし、何か考えるような視線を上空に向ける。

薄い雲が波状に大きく広がってはいるが、ところどころの隙間から澄んだ青色を覗かせていて、比較的おだやかな空模様だった。


その沈黙が、空に気を遣わせてしまっていると思った凪咲は、慌ててフォローを口にした。


「あ、でもほんともう全然大丈夫だから。心配してくれてありが――」

「じゃあ、俺が送るよ」

「え」


突然の申し出に、口を開けたまま目を瞬かせる凪咲。


「いや、ほんとにもう大丈夫だよ」

「俺がいくら声を上げて呼んでも聞こえてなかったんだ。信じられないな」

「でも、そこまでしてもらうのは悪いよ」

「明日まで心配させる方がもっと悪い」

「けど……」

「勝手に一人で帰ろうとするなよ。あんたの席、俺のすぐ前だろ」


う……なにも言い返せない。

彼の申し出は嬉しいけど、沙由里に黙って二人で帰るのは心苦しい。

だからといってわざわざ彼女に話しをするのは辛い。


やっぱり断ろう、とそう思った。


「あ、あの! 私、やっぱり――」


言いかけたところで、今度は校内から鳴り響くチャイムに遮られる。


「ほら、ちょうど終わったし、さっさと着替えて帰るぞ」


空は踵を返し、校舎の方へすたすたと歩いて行った。


結局一緒に帰ることになっちゃったー! 


凪咲は慌てて空の後を追った。

駆け足気味になりながら、どこか心が躍っている自分がいることに気づく。


教室ではクラスメイトと距離をとりがちだと思っていた彼だけど、意外と面倒見がいいんだなぁ、と思った。

ただ、若干子供扱いをされているような気もしたけど。


いずれにしろ、二人きりで下校することは決まってしまったのだった。



夏澄ちゃん、玲夏ちゃん、大変なことになってしまいました。


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