第11話 逢瀬

「――え……?」


ストン、と体の中から大切な何かが落ちるような音がした。

あるいは、深い谷底に自分自身が墜ちたような、そんな感覚が凪咲を襲う。


視界に映る景色から色が消える。

目眩がしたように目の前が真っ暗になっていく。


目の前で何が起きているのか理解できなかったし、理解することを凪咲の頭と心が拒んでいた。


今すぐにこの場から逃げ出したい気持ちに駆られるが、その想いとは裏腹に、凪咲は目の前の二人から視線を逸らすことができずに見入っていた。


二人がしているのは唇の先だけで触れ合うような、青くさいキスではなかった。


遊びではとてもできない、深いキス。

それがまた、凪咲の心を深く抉る。


長身の空の唇に合わせて背伸びをする小柄な沙由里と、彼女に負担をかけないように腰に手を回して支える空。

その手練が、凪咲に二人の蜜月の深さを感じさせる。


やがて沙由里の足に力が入らなくなり、浮いていた踵が床についた拍子に身体をよろけさせると、空はそのまま沙由里の上半身を机上に押し倒した。


そして、空の手が彼女のスーツの内側に伸びたところで、その先を見ることに耐えられなくなった凪咲は、窓から身を離した。


おぼつかない足取りで後退り、壁に背中がつくと同時にその場で崩れ落ちるように床にしゃがみ込んだ。


本来なら、『教師と生徒』という禁断の関係を目の当たりにしてしまったことに赤面、なんて初々しい反応を見せていただろうが、この二人に限っては『男』と『女』が強く意識されて目に映り、全身の血の気が引いたように凪咲の顔を蒼白させる。


嫌な寒気に襲われ、震える両肩を抱きしめる。

目を離しても、眼を閉じても、その先を勝手に想像して止まらない。


嫌なのに……想像なんてしたくないのに……――足掻いても、藻掻いても、病魔のように容赦なく凪咲の心に侵食していく。


――やめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめて


眼を閉じ、耳を塞ぎ、思考を放棄して現実逃避のためにひたすら叫んだ。

やがて、自分が誰で、どこで何をしているのかも分からなくなるほど頭の中が昏倒したところで、凪咲の瞳は無意識に、震える手の中にある指輪を見つめていた。


彼との繋がりに舞い上がっていたこの指輪の淡い輝きも、いまはただ虚しく感じた。


その神秘が途端にくだらないものに思えてきて、そして嫌味に見えてきた。

我知らず指輪に手が伸びていた。


目に入れたくなかったのか、この手にはめていることが嫌になったのか、自分でもわからない。

ただ、今この瞬間は目の届かないところにやってしまいたくなったのかもしれない。


昨日は抜こうと思っても抜けなかった指輪が、いまはスーッ、と滑らかに凪咲の細い指から離れていく。


それを力ない瞳で見つめながら、無心で引き抜いた――その瞬間だった。


指輪が凪咲の指から完全に離れた瞬間、急激な胸の痛みが、凪咲を襲った。


「――か、はっ……あ、あぁ……」


心臓を直接握りつぶされるような痛みに、声を出すどころか、息をするのもままならず、その場に倒れ込む。


両手で胸を抑えた拍子に掌からこぼれた指輪がカランと音を立てて床に落ちると、カラカラと器用に転がっていき、生徒指導室の扉をノックした。


痛みが、次第に凪咲の意識を奪っていく。

昨日、海の中で空の手を掴んだ際に襲ってきたものと似た感覚だった。


けど、今度はこの手の中に空はいない。

扉を開ければそこにいるはずなのに、ずっと、ずっと遠いところへ行ってしまった。


やがて、指先ひとつ動かすことができなくなって、意識を失った。



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