第10話 目撃
翌日。
普段から早い凪咲の起床は、昨晩一睡もできなかったためにさらに早い起床となった。
養次もまだ眠っている。
気が晴れないまま、凪咲は朝の仕事に取りかかった。
久し振りに自分で朝食と弁当を作った。
朝食を済ませながら、夏澄と玲夏に先に学校に行くメッセージを送って、家を出る。
こんなにも早い時間に通学路を歩くのははじめてで、いつもよりも空気が澄み切っていた。
だが、いまの凪咲に早朝の空気を呑気に味わっている余裕はなく、足早に学校へ向かった。
学校に着くと、滅多に目にすることのない運動部の朝練風景も横目にさっさと校舎に上がった。
「夏花さん?」
教室に向かう途中、誰かに声を掛けられ、振り返る。
沙由里が可愛らしく小さく手を振って凪咲に近づいてきた。
「おはよう、夏花さん」
「あ、沙由里ちゃん先生。おはようございます」
「夏花さんがこんなに早い時間に登校だなんて、珍しいね」
ふわっと、沙由里が微笑む。
いつもならその笑顔の破壊力に心を乱されているところだが、いまは彼女の魅力にうまく焦点が合わない。
「朝はなにかと忙しいでしょう?」
凪咲の家庭の事情を把握している沙由里は、慈美の葬儀にも来てくれていた。
その後もいろいろと凪咲を気に掛けていて、よくお店にも顔を出してくれていた。
そんなこともあり、沙由里を慕う生徒は多いが、中でも凪咲は人一倍彼女のことが大好きだった。
普段ならば、ここで彼女と立ち話のひとつやふたつでも興じていただろう。
だが――
「うん。けど、今日はちょっと早く目が覚めちゃって」
適当にそう言って、凪咲は軽く頭を下げてから踵を返す。
そそくさと教室に向かおうとしたところで、
「夏花さん」
再び呼ばれて振り返る。
心配そうな表情で歩み寄る沙由里は、凪咲のほんの少しの変化も取りこぼすまいとするような眼差しで彼女を見つめていた。
そして、
「お家の手伝いとかでいろいろ大変だと思うけど、無理だけはしないでね。学校のことでなにかあったら、遠慮なくいつでも先生を頼ってね」
押し付けがましくもなく、社交辞令でもない、本心からの言葉だと彼女の真摯な瞳から伝わってきた。
嬉しかった。
いまでなければ、思わず泣いてしまっていたかもしれない。
やっぱり生徒と向き合うときの沙由里は凄いな、と凪咲はあらためて思った。
いっそ、彼女に空のことを打ち明けてみようか―――
彼女なら、きっと優しく空に手を差し伸べて、彼を救ってくれるかもしれない。
けど、結局踏み止まった。
誰かに気軽に話していいようなことではないと思ったからだ。
「ありがと、沙由里ちゃん」
本当はそれだけが話すことを躊躇う理由ではなかったが、そのことは頭で考えないようにした。
凪咲はもう一度頭を下げる。
沙由里は何か言いたげな笑みを浮かべながらも、それ以上は何も言わず凪咲を見送った。
心の不安が、少し軽くなったように感じた。
教室の扉の前で一度足を止め、深呼吸をする。
きっと大丈夫。取っ手に掛けた左手で光る指輪を見つめながら言い聞かせる。
一息に扉を開ける。
誰かが開けたのか、窓から澄んだ風が舞い込み、カーテンを靡かせた。
教室には、まだ誰もいなかった。
「……」
急いていた気持ちを落ち着かせるために、ひとつ息をつく。
不安は拭えないが、頭の方はいくらか冷静さを取り戻したところで、窓の外から朝練をしている運動部の掛け声が聞こえてきて、自分の登校した時間を思い出す。
特にやることもないが、いつまでも教室の入り口で立ち尽くしているわけにもいかないので、とりあえず自分の席に向かった。いやに足取りが重かった。
途中、凪咲の席の、一つ後ろの席の前で足を止めた。
空の席である。
無意識に手を伸ばしていた。
そっと、空の机を指の先で撫でる。新品同様の空の机は、汚れのひとつも無かった。
まるで、はじめから誰もこの席には座っていなかったかのようなその綺麗さが、落ち着かなかった。
「あれ? 夏花さんじゃん」
快活な声に呼び掛けられて振り返ると、拓海が教室の入り口から顔を覘かせていた。
「おはよう。早いね」
凪咲に手を振りながら、拓海は自分の席に向かっていく。
彼はバスケウェアの格好で、練習中だったのか軽く息を上気させていたが、いつもの爽やかな雰囲気は健在だった。
「おはよう。春沖くんは朝練?」
「うん、そうだよ。昨日、教室にバッシュ置いて帰ったの忘れててさ。急いで取りにきたんだ」
机の横に掛けてあったケースを手にとって、凪咲に見せながら言う。それを見て、凪咲は空もバスケ部で、しかもこの拓海と仲がよかったという夏澄の話を思い出す。
もしかして、と思うより先に彼に訊ねていた。
「あの、春沖くん。今朝、朝海くんって、見た?」
「空?」
凪咲の口から空の名前が出たことが意外だったのか、拓海は一瞬目を丸くしてから言った。
「いや、今日はまだ会ってないけど……え、あいつもう来てんの?」
「あ、ううん。そういうわけじゃないんだけど、もしかしたら朝練で来てるかなぁって思って。朝海くん、バスケ部だったんだよね」
「うん、そうそう。よく知ってんね。って、そうか、桐崎から聞いたのか」
クラスメイトをよく気に掛けている彼は、クラス内の誰が誰と仲が良いグループなのかをある程度把握していた。
「うん。夏澄ちゃん、二人は仲のいいライバルだって言ってたよ」
「そうなんだよ!」
ぱっと拓海の顔が明るくなる。
「あいつ、バスケすげぇ強くてさ! 本気でやっても勝てないときあるから、アイツとの1on1は楽しいんだ」
子供のように目を輝かせながら、拓海は嬉しそうに語る。
「視野も広いし、パス回しも上手いから一緒にプレーしてても楽しいんだよ。俺、早くアイツと一緒に試合したいって、ずっと思ってんだ!……けど」
と、そこで僅かに拓海の表情が翳る。
「仲が良い、っていうのは、どうだろ。俺は空と試合した日からずっとそう思ってたけど……けど結局俺は、アイツが休学することも知らなかったんだ。アイツが困ってるとき、俺は助けになってやれなかったのかもしれないな」
遣る瀬無いというようにそう言って、拓海は目を伏せる。普段、誰にでも明るく接する彼が肩を落とす姿は珍しかった。
「春沖くん……」
心配そうな凪咲の視線を受け、はっと我に返った拓海は、すぐにいつもの爽やかさをその表情に取り戻した。
「なんて、空と部活したのは一週間もなかったし、俺の方が勝手にライバルだ、友達だって言ってただけなんだけどね」
首の後ろを掻きながら、拓海は笑って言った。
「ううん。きっと、そんなことないよ」
凪咲は首を横に振った。
「二年になってまだ二ヶ月くらいだけど、春沖くんがクラスの困っている人達を助けてくれてるのはみんな知ってるよ。私も何度も助けてもらったしね。だから、朝海くんが休学することを春沖くんに伝えなかったのは、きっとなにか言えない理由があったんだと思うよ」
そして、その理由を、いま私は探している。
拓海は目を丸くしてから、すっと微笑むと「ありがと」と照れくさそうに笑って言った。
そして、
「夏花さんって、やっぱり優しいんだね」
「え? ええッ! いやいや、そんなことないよ。どうしたの、急に」
凪咲は勢いよく両手を顔の前で振る。
そんなことを言われるとは思っていなかったので驚いた。
「ていうか、やっぱりって?」
「ああ。桐崎がさ、夏花さんは優しい子なんだって、いつも言ってるんだよ。アイツ、夏花さんのこと大好きだからね」
自分のいないところで、そんなことを言ってくれているなんて知らなかった。
私も大好きだよ――凪咲は心の中で夏澄に呟いた。
「それじゃあ、俺、部活戻るね。あ、もし空に会ったら部活来いよーって言っといて」
そう言って教室を後にする拓海を、小さく手を振って見送った。
再び教室に一人になる。
目の前の空の机を見下ろす。
空は誰にも休学の理由を告げることなく学校を去った。そして昨日、自らすべてを終わらせようとした。
思い出すだけでも胸が締めつけられる。
息が苦しくなる。
どうして? そんな疑問と遣り場のない悲しみが際限なく溢れてくる。
それがぐるぐるぐるぐると、海に潜ったあのときのように頭の中を掻き回して絡みついてくる。
考えたくもないことが、言葉となって止むことなくこだまする。
そして、すべてを暗闇が支配していく――
「はッ!?」
大きく肩で息をする。
ずっと息を止めていたみたいに身体中から酸素が逃げていってしまったようだった。ひどく目眩がした。
呼吸を整えながら、凪咲は無意識に空の席の椅子を引いていた。
そして、ゆっくりと腰を下ろすと、そのまま机の上に突っ伏した。こうすれば、少しは落ち着けるかと思った。
彼の息吹を感じる机で、彼がこの席に座っている姿を思い出しながら。
気が落ち着いたら、今度は急にうとうとしてきた。
静かな教室に一人しかいないことと、昨晩一睡もできなかったからだろうか。
このまま素直に欲求に従いそうになるが、いま凪咲が座っているのは空の席だ。
もし誰かに見られたら、変に思われるかも知れない。そう思うも、なかなか重い頭を上げられなかった。
凪咲は突っ伏したまま薄らと開けた目で左手を見やる。
それを目にしたのが最後、次に瞼を閉じたときには、そのまま意識が遠くに飛んでいった。
澄んだ潮風とグランドから聞こえてくる運動部の掛け声や、吹奏楽部の演奏練習の心地よさに身を任せていた凪咲は、眠りに就くまで、一人の生徒が教室に入ってきたことに、気づけなかった。
ただ、気のせいだろうか。
頬に被さる横髪を、誰かにそっと撫でられた気がした。
しばらくして、ぱちり、と唐突に目を覚ます。
教室には凪咲の他にはまだ誰もいなかった。
凪咲は突っ伏していた頭を起こすと、教室を見回してから、勢いよく立ち上がった。
――や、やばいッ! どうしよう私、朝海くんの席で眠っちゃってた……。
慌てて教室の時計を見る。
まだほんの数分程度しか経っていなかったので、凪咲はほっと胸を撫で下ろした。
「よかったぁ、みんなが来る前に起きれて……あれ?」
椅子を戻そうと背もたれに手を掛けたところで、先程は無かったはずのものが目に入ってきた。
空の机の横に、鞄が掛けてあったのだ。
もちろん、凪咲のものではない。
彼女の鞄はちゃんと自分の席に掛けてある。
ならば、あと考えられる心当たりはこの席の主以外にはない。
そう思った瞬間、凪咲は、空の机で眠っている姿を本人に見られたということが頭に浮かぶより早く、教室を飛び出した。
誰もいない廊下をひた走る。
走りながら、横切る教室内を瞬時に横目で確認する。
一つ、二つ。しかし、空の姿はない。
「はあッ……はあッ」
息が上がるも、足は緩めない。
一刻も早く、空の無事な姿をこの目で確かめなければ、不安は拭えないと思った。
空に会いたい。
ただそれだけの強い想いが、凪咲の足を動かしていた。
その想いが報われたのは、階段を降りた直後だった。
凪咲の視界が、廊下を歩く空の背を捉えた。
いた!
遠目だが、間違いなかった。
直方体の校舎の両端にある階段。
凪咲が降りてきた階段とは反対側の階段付近を空は歩いていた。
見つけた! やっと、会えた
凪咲は息を整えるのも忘れて、空の元へ駆け出す。
無事でよかった。
胸の奥で重くのしかかっていた不安が、幾何か軽くなったような気がした。
昨日の行動の真意を訊ねようと声を掛けようとしたときだった。
「あ」
凪咲の視線の先で、空が教室に入っていくのが見えた。
生徒指導室だった。
「そういえば、昨日も放課後、用があるって言ってたっけ」
思えば、一般生徒の登校にはまだ早い時間帯なのだ。
空は復学したばかりだし、きっといろいろと手続きなどがあるのだろうから、そのために早くに来ていたのだろう。
そう思いながらも、声を掛けられずに残念に思う正直な気持ちは隠せず、肩を落とす。
「また、話せなかったなぁ」
生徒指導室の前で凪咲は独りごちる。
昨日も結局一日話し掛けられず教室から出て行く彼の背を見送り、浜辺では海へと身を投げる背に手を伸ばし、今もあと少し手を伸ばせば届きそうだった背が扉一枚隔てた向こう側にいる。
なんだか、彼の背中ばかりを追いかけている気がした。
けど、だからこそ、だった。
凪咲は教室に戻る前に一目だけでも彼の顔を見たいという気持ちを抑えられなかった。
もしここで、冷静に大人しく教室に戻るという選択をしていれば、知らずに済んだのだろうか。
だが、そう判断できなかったことを、凪咲はすぐに後悔することとなった。
教室の扉の窓からこっそり顔を覘かせた凪咲の目に、信じられない光景が飛び込んできた。
教室の奥には二人―――空と、そして沙由里がいた。
二人はそこで、キスをしていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます