第8話 在りし日の大切な約束


――私のペンケースには、消しゴムが二つ入っている。



母、慈美の葬儀が終わり、凪咲は約二ヶ月遅れで高校に入学した。

本当はもう少し早く学校には行くつもりで、養次もそう薦めていたのだが、父娘二人暮らしの自営業は落ち着くまでになにかとやることが多く、なにより凪咲自身が母を喪った直後に新しい環境へと目を向ける余裕がなかったのだ。


初日は休日登校だった。

事前に担任から連絡があり、試験を受けるように言われていたからだ。


凪咲が復学する意志を伝えたときには、すでに中間テストが終わっていて、それを受けるためだった。成績をつけるために形式上受ける必要があり、点数は特に関係ないらしい。


だが、凪咲にとってはそんな斟酌があろうと無かろうとどうでもよかった。

どのみち今日まで勉強する余裕も気力もなかったし、遅れた入学では授業にもついていけないだろうと思った。


だから、もし赤点で、再試もダメで留年することになったら、べつに退学めてしまえばいい。

そしたら店の手伝いをするだけだし、それもいい、と思っていた。


そんな気構えでいたから、受験以来久し振りに目にする学校も、大した感慨はなかった。

遠くから聞こえてくる運動部の掛け声も、どこか他人事のように思えた。

途中、夏服姿の生徒を見かけて、そこではじめて衣替え期間を迎えていたのだと知った。


クラスの教室に入ると、すでに男子生徒が一人、席に座っていた。

そういえば事前の電話でもう一人一緒に試験を受ける生徒がいると言っていたことを思い出す。

家庭の事情で休学している生徒だとかなんとか言っていた気がするが、よく覚えていなかった。


凪咲が入ってきたことに気づき、振り返った男子生徒と目が合った。

挨拶をするべきかとも思ったが、そんな気力も沸かず、別の日にクラスのみんなの前で自己紹介をすることがあるだろうと思ったので、軽く頭を下げるだけに留めた。

相手の男子生徒がどう返してきたか確認せずに、凪咲は席に向かった。


黒板に貼られた用紙に記載してある指定された席に座る。

男子生徒と一つ机をはさんだ隣だった。

用紙にはもう一人、『朝海 空』と、その男子生徒の名前も記載されていた。


時間まで待機する。

凪咲は筆記用具を机に並べておこうとシャープペンシルを数本取り出したところで、凪咲の手が止まった。


――あ、消しゴム忘れてる……


昨晩、大した確認もせずに鞄に入れてしまったせいだ、と思った。

だが、このときの凪咲にとっては、それが重大な問題であるとは思えなかった。そのままペンケースを鞄にしまい、時間がくるのを待った。


そのときだった―――


ぼうっと眺めていた机上の端にひょこ、と出汁巻き玉子が現れた。


掌サイズの小さな出汁巻き玉子だった。

一瞬呆気にとられたあと、それが消しゴムであると分かった。


「好きなんだよ、俺。出汁巻き玉子」


そう呟いたのは、いつの間にか凪咲の机の横に立っていた男子生徒、朝海空だった。


気づいた凪咲がゆっくりと彼を見上げる。

座った状態ではほぼ真上を見上げていると思うくらい、背が高かった。


「前に食べたやつが美味くて、いまだに忘れられねえんだ」


彼の双眸は手元の出汁巻き玉子の消しゴムに向けられていた。


そこではじめて、彼の顔に凪咲の焦点が合った。

妙に目を惹かれるような表情だった。

イケメンであることには相違ないが、ただそれだけでなく、本心を覆い隠すような無表情が、逆に凪咲の目を強く惹きつけたのかもしれない。


「あ、あの……」


突然のことで言葉が出てこなかった。

困惑気味の凪咲に、朝海空は消しゴムに向けた視線は動かさないまま、呟いた。


「妹が」

「え?」

「今日テストだって話したら、持ってけって渡されたんだ。変な消しゴムだろ」


ポケットに手を入れる。

取り出した物を掌にのせて凪咲に見せる。そこには出汁巻き玉子と似たような、小さなカツ丼の消しゴムがのっていた。


「いらねーって言ってんのに、わざわざ自分のお気に入りから持ってきてさ。テストに勝つとかなんとか言って。べつに勝負するわけでもねぇのにな」


そう言いながらも、空は穏やかに微笑んでいた。


「ま、そんなわけで、俺は負けるわけにはいかないらしいから、カツ丼こっちは渡せないんだ。アンタは出汁巻き玉子そっちで我慢してくれ」


それだけ言って、凪咲の机に出汁巻き玉子の消しゴムを置いたまま空は踵を返す。もしかして、消しゴム忘れたのに気づいて気遣ってくれたのだろうか。


凪咲は机に置かれた出汁巻き玉子をしばし見つめてから、「あの」と空の背に呼び掛ける。

空はその場で足を止めた。


「ありが、とう」


少しぎごちなくなってしまったかもしれない。


凪咲の言葉を噛みしめるような、そんな間があった。


「なあ」


空は振り向かずに言った。


「俺さ、いま学校休んでんだよ。一週間くらいしか行ってないから、仲のいい話し相手とかもまだいないんだ。だからさ――」


空は肩越しに、微笑みを浮かべて振り返る。

呆けている凪咲を無垢に輝く瞳が捉えた。


「復学したらアンタ、俺の友達になってくれよ」


低く落ち着いた声音だが、不思議と耳によく通って聞こえた。

本気かどうか分からない、けど、からかっているのでもない、そんな口調だった。


その瞬間、空虚だった凪咲の胸の奥に、小さく火が灯るのを感じた。

いやに落ち着かない、むず痒さを孕んだなんともいえない感じだったが、先程までの無気力な静寂に比べれば、景色が変わったように心地よい。


その熱が心臓に伝わり、トクン、と新たな芽を出すように鼓動した。


空はそのまま自分の席に戻っていった。

彼が戻った後で、凪咲は横目に空の机の上を見る。先程のカツ丼の消しゴムと一緒に、よく使われる普通の消しゴムが置いてあった。

彼は試験で使用するための消しゴムをきちんと用意していたのだ。


それでも、彼が貸してくれたのは、この変わった出汁巻き玉子の消しゴムだった。もちろん、その気遣いは嬉しかった。ただ、普通に考えれば、人に貸すならば様式美よりも機能性を重視して普通のものを渡すだろう。逆の立場であれば、凪咲もそうしていたと思った。


だが、彼は違った。

それが意味するところは他でもない、彼の瞳が捉えていたのは、凪咲が消しゴムを忘れたことではなかった。


彼は、凪咲の胸に空いた穴を見ていたのだ。


机の端に置かれた、優しい色をした消しゴムを見つめる。


――そういえば、お母さんも、お父さんの出汁巻き玉子が好きだったっけ。


そんなことを思い出す。

お見舞いに行くときは必ず持っていって、よく一緒に食べていた。

母のためにと父が作って持ってきたのに、いつもほとんど凪咲が食べてしまっていた。それでも母は嬉しそうに笑って、優しく頭を撫でてくれた。

とても温かくて、幸せだった。


不意に目の奥がツンと熱くなったかと思うと、その熱が頬を伝ってくるのがわかった。

あの温かさを感じるのは、本当に久し振りだった。

ずっと喪ってしまったものだと思っていた。

もう二度と感じることはできないのだと、そう思っていたあの日の温もりが、そこにはあったのだ。


堰き止めていたダムが決壊したように滔々と溢れ出す涙を、止められそうになかった。

声が漏れないように両手で塞いで押し殺すので精一杯だった。


自分でもよく分からなかった。

なんで急にこんなにも涙が溢れてきたのか。


けど、こんなに泣いたのは母の葬儀以来だった。

いや、喪失感に支配されていたあのときは、いまほど上手く涙を流せてはいなかったかもしれない。


こうして自然に涙を流せたのは、凪咲が忘れていたものを、そして捨て去ろうとしていたものを、彼が拾ってくれたからだ。


採寸以来はじめて着たブレザーの袖は涙でぐしゃぐしゃに濡れてしまった。


もうすぐ試験が始まる。


時計の針が動く、音がした。




彼との約束は、今日まで一日たりとも忘れたことはない。


凪咲のペンケースには、あの日から色褪せることのない秘めたる想いが、いまも眠っている。

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