第7話 儚さの果て

夕焼けが空を、海を、街を橙に染める。


養次から頼まれた買い出しを終え、海岸沿いの道を歩く凪咲の横顔もこの世界と同じ色に染められ、街の景色に溶け込んでいた。


潮風が凪咲の髪を揺らし、頬をくすぐる。

靡く横髪を指先で払うと、指輪の淡い光が視界の端で煌めいた。

その光に誘導されるように海の方へ視線を向けると、水面に反射した夕陽が、一面に宝石をばらまいたように眩く揺らめいていた。


凪咲はふと足を止めると、薬指に嵌められた指輪を水平線に沈み行く夕陽にかざして、見つめる。

炎のような淡い輝きは、夕焼けの儚い美しさによく似ていて、景色に溶け入りそうだった。


そう思った瞬間、ある感覚と共に、なぜか脳裏に教室から出ていくときの空の顔が浮かんできて、不意に切なくなる。


空を意識して見つめる指輪は一層綺麗で、特別なもののように思えた。


自分以外には目に見えない不思議な指輪。

同じ指輪を空が嵌めていると知ったとき、根拠もないのに何か運命的なものを感じずにはいられなかった。

これまで会えずにいた空が、指輪が現れた日に復学したためというのもあるだろう。


――そうよ! きっと、この指輪が朝海くんと引き合わせてくれたんだ。たしか、朝海くんも左薬指に嵌めてたし。


もしかして、朝海くんからの贈り物だったりして! 


なんてねぇ。そんなことあるわけないよね。

けど………うふふ


などと、妄想に花を咲かせながら、ニヤけた顔で指輪を眺めていると、ふと視界の端に、波打ち際に立つ見慣れた制服が目に留まった。


「あれ? 高校うちの男子かな」


遠目だが、それだけは分かった。

その男子生徒は何をするでもなく、ただじっと海を眺めていた。


なにしてるんだろう。

なんとなく気になり、凪咲は彼に近づいていった。

陽の沈みかけた浜辺には、彼の他には誰もいない。


海岸沿いの道にある石段を降りて砂浜に足を踏み入れる。

潮の香りがより強くなったところで、凪咲の心臓がひとつ跳ねた。


近くなったその背は、単に見慣れた制服というだけではなかった。

なぜなら今日一日、凪咲はその背をずっと目で追っていたからだ。


間違いないと確信した。

あれは……


「朝海くん!?」


凪咲ははっと指輪に目を遣った。

先程の冗談のつもりだった妄想が、急に現実味を帯びてきた。


もしかしたらこの指輪は本当に自分達を引き合わせてくれる奇跡の指輪なのかもしれない。

そう思うと同時に、これは彼に指輪のことを訊ねるチャンスなのではないか、とも思った。


しかし凪咲は、まだ声が届かないくらいの距離のところで一度足を止めた。

沈みゆく夕陽がやがて水平線に触れ、海面を光の道が垂直に伸びている。

まるで、その境界線上に立つ空を彼方へと導いているかのようで、不安に駆られたからだ。


すぐに再び歩を進めた。

うまく話し掛けられるかは分からない。けど、凪咲には果たさなければならない、彼との大切な約束があった。


とても大切で、特別な約束。


徐々に近づく二人の距離。

夕焼けとは異なる紅潮が凪咲の頬に浮かぶ。

すでに叫べば声が届くだろう距離にまで近づいていた。


だが――


突然、二人の距離が遠くなった。


否、空が沖に向かって足を踏み出したのだ。


間もなく陽も沈み、オレンジ色だった世界を徐々に薄暗さが支配していく。

波打ち際にあった空の足が乾いた砂と湿った砂の境界線を跨ぐ。打ち寄せる波に足下を掠われても、彼は靴を履いたままだということを気にしていない様子だった。


「朝海、くん……?」


なにをしているのだろう、と再び思う。

しかしそれは、先程の興味本位とは違う、胸騒ぎからきたものだった。


少なくとも遊泳目的であるとは凪咲にはとても思えなかった。

おぼつかない足取りで海に消え入るような力ない背が、彼女の不安を煽る。

凪咲は持っていた買い物袋を強く握り締めた。


人影が足下から水面に溶け込むようにどんどん沖へと歩いていく彼は、やがて海面が腰のあたりに達したところで、ようやく空が足を止めた。


少し安心した凪咲だったが、それも束の間、次の瞬間に彼のとった行動に、凪咲は今度こそ心臓が止まりそうになった。


足を止めた空は、そのまま正面に力なく倒れ込んだのだ。


「――え?」


一瞬、なにが起きたのか、彼がどこへ行ったのか理解できずに呆然とする凪咲だったが、すぐに事態を飲み込み、悲鳴を上げそうになった口元を咄嗟に両手でおさえた。

同時に、今朝の夏澄の言葉が頭を過ぎった。


――それに海の家もまだないから、何かあったら危険だしな


何か、あったとき……? 


内心で呟いて、不安になる。

だが、あらゆる可能性の中から真っ先に最悪の結果を思い浮かべてしまったのは、いつまで経っても空が顔を見せなかったからだった。


いつまで、といっても時間にすればまだほんの数秒しか経っていないのだろうが、体感ではそれ以上に長く感じた。


「朝海くんッ!」


気づけば持っていた買い物袋を放り、凪咲は空の元に向かって走り出していた。

もしかしたら沈んだままもう二度と空が顔を見せないんじゃないかと、そんな嫌な予感が脳裏を過ぎった。


――イヤ……


砂浜を必死に駆ける。蹴り上げた砂粒が靴の中に入ってくる不快感を気にしている余裕もない。


――イヤ……


途中、波打ち際で何かが光った。

視線を向けた一瞬に、白い粒が大量に入った透明な薬瓶を視界に捉えた瞬間、凪咲の心臓の鼓動が更に大きく跳ねた。


すぐに視線を逸らすようにして海の方へと戻す。その瓶が何であるか、何を意味するのかを考えたくはなかった。


――いやだッ……待って……


バシャバシャと水を掻き分けて、空が沈んでいった場所を目指す。

深くなるにつれ、海水がより重く足に絡みついてくるが、なんとか空が倒れ込んだ近くに辿り着いた。


「朝海くんッ! 朝海くんッ!」


返事はない。

灰色の海に加え、すでに辺りは薄暗くなり始めていたので、目視や手探りだけではとても分からない。


凪咲は必死に空の名を叫びながら周囲を見回すが、彼が姿を見せる気配はなかった。


――なんでッ!? どうしてッ!?


凪咲は足を止め、大きく息を吸い込む。

そして、


――せっかく会えたのに、また会えなくなるのは、絶対に嫌!


その場で沈み込むように、勢いよく水中に潜っていった。

ひどく濁っていて視界が悪く、加えて潮と砂の奔流でそもそも長時間目を開けることさえ困難だった。

幸い、買い出しようにTシャツと短パンに着替えていたので、身包みは大した重しにはならない。


凪咲は掻き分けるように手探りで空を探しながら海の中を進んだ。僅かでもこの指先に触れると信じて。


だが、一向に彼は見つからない。

そろそろ息を止めているのも限界だった。

一度息継ぎに戻ろうと、意識を地上に向ける。もしかしら、同じように空も顔を出しているかもしれない。


いや、そうであってほしいと思った。

自分が深く、大袈裟に考えすぎていただけで、空自身はちょっと潜ってすぐに顔を出しているに違いない、と。


体勢を上に向けようとして薄らと目を開けた瞬間だった。


底の方で、なにかが光ったのが見えた。


見覚えのある光だと思った。

そしてすぐに凪咲は自身の左薬指に意識を向けた。先程の光は、この不思議な指輪の淡い光にそっくりだった。


そして、自分以外にこの指輪を嵌めている人物を、凪咲は一人しか知らない。

気づけば息継ぎも忘れて下方へ潜る体勢をとっていた。

ここで目を離したら、二度と会えなくなる。

なぜかそんな気がしたからだ。


必死に水を掻き分けて潜っていく。

すると、視線の先で再びチカッと光が見えた。

今度こそ指輪の光に間違いないと凪咲は確信すると同時に、その光に向かって思い切り手を伸ばした。


――お願い……届いて! 届けッ!


指先が光に触れ、反動で離れ、だが力の限り伸ばした手が光を掴んだ。


それは指輪だけでなく――

彼の手を掴んだ感触が、たしかにそこにはあった。


――朝海くんッ!?


凪咲は力一杯その手を引いた。

波に流されないように。そして、二度と遠くへ行かないように。


腕を引いて、そのまま肩を抱き寄せる。

薄らと目を開けると、空の顔が目の前にあった。

眠っているのか、穏やかな表情だった。


一安心し、すぐに地上へ戻ろうとした凪咲だったが、突然、視界がぼやけたかと思うと、そのまま意識が遠くなりはじめた。


呼吸いきの限界とは別の、眠気に襲われるような、そんな感覚だった。

それがなにかは分からない。

確かなことはこのままでは二人とも危険だということだった。


凪咲は最後の力を振り絞って、祈るように空の頭部を強く抱きしめた。


――朝海……くん


そして、そのまま眠るように瞼を閉じた。

意識を失う直前、夕陽に指輪をかざした際に空の顔が浮かんできたときの感覚を思い出した。


夕焼けに溶け入りそうな儚い指輪の輝きは、彼によく似ていると思ったのだ。

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