第5話 再会

凪咲は大きく目を見開いて空を見つめる。


一瞬のことだったから、もしかしたら見間違いかもしれないし、凪咲の指にはめてあるものとは違う普通の指環なのかもしれない。

ただ、後者の場合だと指輪が本来の意味を取り戻してしまい、凪咲にとっては苦い事実となってしまうのだが。


ともかく、凪咲はどぎまぎしながらも空が自分の真横を通り過ぎる一瞬に恐る恐る、しかし目を凝らして見極めるように確認した。


やはり、見間違いではなかった。

外縁を淡い光が縁取るその輝きは、紛うことなく凪咲の薬指にはめてあるものと同じ指輪だった。


――朝海君と同じ指輪が、同じ指に……


凪咲は自分の薬指にはめてある指輪を見つめ、顔を伏せる。

朝起きたら突然はめてあったこの正体不明の指輪の手がかりを見つけたこと以上に、その相手が朝海空だったことが凪咲を殊更に動揺させた。


背後から椅子を引く音がする。

本当なら復学した友人にいますぐ挨拶のひとつでもしたい。相手が朝海空なら尚更だ。

だが、凪咲は顔を伏せたまま面を上げられないでいた。

鏡を見なくても分かるくらい熱くなった顔の紅潮を彼に見られたくなかったからだ。


けど、彼は今日、学校に来た。

今日から同じ学校の同じ教室に通うことになる。それも、自分の真後ろの席に。

いやでも胸が高鳴ってくる。

指輪のことは、顔の熱が冷めた放課後にでも訊いてみよう、とそう思っていた。



が、しかし――

いざ放課後になっても、緊張してなかなか話し掛けられずにいた。

最後の、五限の授業中に頭の中であれだけはじめの一歩の予行練習を繰り返していたのに。おかげで授業内容はまったく頭に入ってこなかったが、ここで話し掛けなかったらその努力も水の泡になってしまう。


だが、意を決し、後ろを振り返ろうとした瞬間、タッチの差で先客が空の肩を叩いた。


「空! 久し振りじゃんか! 学校、戻ってこられるようになったんだな」


今朝、空が教室に入ってきてから真っ先に声を掛けた男子生徒だった。凪咲は後ろを振り向きかけた体を慌てて戻し、二人の会話に耳を傾ける。


「まさか、俺のこと忘れたりしてないよな」

「お前の騒々しい声を忘れられるわけないだろ、拓海たくみ。もちろん覚えてるよ」

「そっか、よかった! つか、騒々しいってなんだよ」


拓海は空の肩に肘打ちでツッコミを入れ、二人は笑い合う。そこには、復学したクラスメイトへの軽い挨拶というだけではないような親しさを感じた。

二人はどんな関係なんだろう、と凪咲は少し気になった。


「そうだ、空! バスケ部の方も戻ってこられるのか? 俺、お前とまたバスケやれる日をずっと待ってたんだぜ」


子供のように目を輝かせながら、拓海は空の顔を覗き込む。

なるほど、そういう接点があったのか。

夏澄の応援のために玲夏と二人でよく女バスの練習を見学に行ったことはあったが、空がバスケ部だったことは知らなかった。


因みにバスケ部としての拓海についてはよく知っていた。

おそらく知らない生徒の方が少ないだろう。

なぜなら、女子バスケ部のエースが桐崎夏澄なら、男子バスケ部のエースはこの春沖はるおき拓海だからだ。


昨年、一年生ながらすでにエースとしてチームを引っ張り、我が校初のインターハイ出場へと貢献している。

彼の活躍見たさに連日多くの女子達が見学に集まり、体育館には部員達の掛け声が霞んでしまうほどの黄色い声援が飛び交っていた。


「空が戻ってきてくれれば、今年もインターハイ出場間違いなしだぜ」と言って、拓海はエアフリースローして空の答えを待つ。

だが、


「悪い。これから書類貰ったり、いろいろ手続きとかしに沙由里先生のとこ行かないといけないんだ」


その答えに拓海は「そっかぁ」と少し残念そうな声で言った。それは凪咲も同じ気持ちだった。


残念。私もいろいろ聞きたいこととかあったのに……ていうか、なんだろう? いま、何か違和感があったような……


「まあ、今日来たばっかだし、それもそうだよな! じゃあ、いろいろ落ち着いたらまたやろうぜ」

「ああ」

「けど、去年、急に空が部活来なくなったから驚いたよ。去年は同じクラスじゃなかったから、空が学校休学したってあとから聞いたからさ」

「ああ、悪かった、突然」

「いいっていいって。なんか事情があったんだろ? なら仕方ないさ。こうしてまた学校に来られるようになったんだから、これからいつでもできるって」


そう言って微笑む拓海の笑顔を、空はまるで太陽の光から目を背けるように視線を逸らすと、すっと机の横にかけた鞄を手に取った。


「空?」


その様子にどこか違和感を覚えた拓海は、立ち上がる空の仕草を目で追った。


「それじゃあな」


すべてを締め括るように言って、空は鞄を肩に掛けて教室の扉に向かっていった。


行ってしまう。

そう思ったら、凪咲は無意識に彼の背を目で追っていた。指輪が嵌めてあるはずの彼の左手は制服のポケットに入れられていた。


「――なあ、空」


空が教室を出る直前、拓海は少し声を低くして空を呼び止めた。

空はその場で足を止める。


「なあ、明日も来るよな? これからまた学校来られるんだよな?」


拓海の友好的な明るい声の奥に、はっきりとした不安が混じっているのが背中で聞いていた凪咲にも分かった。同じような不安を、凪咲も感じていたからだ。


空は背を向けたままで、考えるような間を一瞬置いてから振り返ると、


「早く部活に行かないと遅れるぞ。もうすぐ大会だったよな? がんばれよ、拓海」


ポケットに手を入れたまま、口許だけで微笑んでそう言った。

その瞬間、凪咲の目に映っている空の姿が霞んだように感じた。教室の扉の先は、どこか知らない世界へと通じているんじゃないかと、そんな言い知れぬ不安が頭の中を過ぎった。


拓海も表情を僅かに強張らせていたが、彼はそれ以上は何も言わず、「じゃあな」と言って教室を後にする空を見送った。


空が教室を去った後も、凪咲の中から先程感じた寒気のようなものは消えてはくれなかった。

何が、と問われれば具体的には言葉にすることはできない。

ただ胸の奥に重く残るこの寒気に立ち上がる気力を削がれた凪咲は、指輪のことなど頭の中からとうに消え、彼の出ていった教室の扉を呆然とただ見つめることしかできなかった。


「どうしたの、夏花さん? ぼうっとドア見つめて」


その声で、凪咲ははっと我に返った。

気づくと、拓海が様子を窺うように凪咲の顔を覗き込んでいた。


「え? あ、いや……なんでもないよ」

「あ、もしかして、空になんか用事あった? ごめんな。俺が話し込んじゃったから」

「ううん。特に用はなかったから大丈夫だよ、うん」


本当はあるのだけど、それが適わなかったのは決して拓海のせいではなく、単に凪咲自身が話し掛ける勇気が出なかっただけである。


なので、拓海が気にする必要はないのだが、そう言ったところで拓海はきっと同じように謝ってくるだろう。彼はそういう人だ。だからああ言っておくのがいい。

ただ……


――顔が、近い!


席に座ったままの凪咲に、背の高い拓海が視線を合わせて身を屈めてきたのだから、その距離が近くなるのは必然だった。


――きゃー顔赤くなってないかなー私!

――てゆうかあらためて近くで見ると、春沖君ってやっぱりイケメンだなぁ。

――それよりも、こんなとこファンの子達に見られたら睨まれちゃうよー!


などといったことが一瞬にして凪咲の頭の中を駆け巡り、パニックで目が渦を巻く。


幸い拓海は「そっか。ならよかった」と言ってすぐに身を起こしたので、口から心臓が出ずに済んだ。


「そういえば、夏花さんって一年のとき空と同じクラスだったんだよね? 何で休学するかとか言ってた?」


凪咲はかぶりを振る。


「実は私、朝海君が休学する前は学校に来てなかったんだ。朝海君とは入れ違いになっちゃったみたいで」

「あ……」


その理由を察し、拓海は申し訳なさそうな表情で目を伏せる。


「そう、だったよな。ごめん」


もっとも、一年時は別のクラスだった拓海は、空の件と同様、凪咲の事情の全てを知悉していないのは仕方のないことである。

そう思った凪咲は、慌てて拓海を宥めるように言った。


「あ、いや、そんな気にしないで、春沖君。私はもう大丈夫だから」


そう、もう大丈夫だ。

まだ一年前のことだけど、いろんな人に支えられて、私は立ち直れた。


そのきっかけをくれたのが他でもない、彼だった。


けど、空について知りたいのは凪咲も同じだった。

一年生のとき、凪咲が彼に会ったのは、たった一度きりだけなのだから。


「おーい、凪咲ぁー! あたし今日部活休みだから三人で帰ろうぜー……って、こら拓海ーッ! あたしのかわいい凪咲をいじめてんじゃねぇぞー」


帰り支度を整えた夏澄と玲夏が凪咲の席に歩み寄ってくる。


「いや、べつにいじめてないって……ってか、夏花さんはおまえのものじゃないだろ」


呆れた様子で返す拓海。


「今日は女バス、休みの日だっけか」

「おう。だから今日はあんたのファンの子、体育館に大勢入れるぜ」


ニマッとした笑みでからかうように言う夏澄に、拓海は困ったように頭の後ろを掻く。


「あー……あれは、すまん。なんか、気づいたらいつも大人数集まってきちゃって。女子の方にも迷惑かけちゃってるよな」

「いやぁ、あたしはべつに気にならないけど……ただ、いまの発言はあたしが男だったら相当な嫌味だよ、あんた」

「え?」


無垢な表情で首を傾げる拓海。どうやら自覚はないようだ。


「気にしないでいいわよ。嫌味なことをまったく嫌味を感じさせずに口にできるからこそ、あなたは人気者スターなのだから」

「? はぁ……」


玲夏のフォローにも、拓海は最後までよく分かっていないような顔をしていた。

凪咲は、その純粋な爽やかさの中に彼がみんなから好かれる由縁を垣間見た気がした。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る