第4話 復学

教室に入ると、すでに登校しているクラスメイト達がホームルーム前の短い時間を銘々で過ごしていた。

複数の女子グループの談笑や、ふざけ合う男子の笑い声などでざわめき立っている。


まっすぐに自分の席へと向かう。

凪咲の席は窓際の後ろから二番目で、窓から指し込む潮風が、授業中でもいつでも潮の香りを感じさせてくれる。


椅子を引いて座る直前、凪咲は横目でひとつ後ろの席を見やる。

汚れやキズのひとつもない、新品同様のきれいな机だった。


それもそのはずで、その席は二年生になってからの約二ヶ月間、まだ一度も座られていなかった。

この席に座るはずの生徒が、長いこと休学しているためだった。


凪咲は苦々しそうに、けど特別な熱を以て、主のいない席を見つめた。いつかその席の主人がそこに座る日がくることを待ち焦がれるかのように。


しばらくして朝のホームルーム開始のチャイムとほぼ同時に、前の扉から担任の浜岡はまおか沙由里さゆり先生が入ってきた。

窓から吹き抜ける風が、彼女の鎖骨を覆う栗毛をふんわりと靡かせる。


いつもならきちんと閉めるはずの扉を、今日は開けたままにして彼女は教壇に立つと、


「みなさん、おはようございます」


生徒全員の表情を確かめるように、沙由里は教室全体を見回しながら挨拶をする。一同が変わらぬ活気で返すと、彼女は満足そうに微笑んだ。


スーツ姿に身を包んだ彼女は今年で三年目の若い教員で、美人な顔立ちと柔らかな物腰で他クラスの生徒からも人気の女教師である。

そのためか、生徒達からは「沙由里ちゃん」の愛称で呼ばれており、そう呼ばれる度に「こら! ちゃんと浜岡先生と呼びなさい」と頬を膨らませているが、その姿はむしろ逆効果である。


しかし、奥ゆかしくある立ち居振る舞いの中には確かな大人を感じさせる魅力も備わっており、容姿以上に、生徒ひとりひとりに対して妥協することなく真摯に向き合う姿勢こそが、彼女が誰からも好かれる所以でもあった。


普段ならこのまま事務連絡に移るのだが、


「今日はホームルームの前に、みなさんに紹介したい人がいます」


そう言って教室の外に出ていく。

その言い回しにクラス内がにわかにざわめき立ち、あちこちで期待と好奇を孕んだ声が聞こえてきた。


凪咲にも察しがついた。この時期に転校生とは珍しいな、と思った。


だが――


教室に入ってきた一人の男子生徒を目にした瞬間、凪咲の思考が一瞬にして停止する。


沙由里が連れてきた生徒は、ほとんどの者にとっては見慣れない顔だが、凪咲にとってはけっして忘れるはずのない顔だった。


驚いて、思わず彼の名を叫び出しそうになり――


そら? 空、だよな!?」


しかし声を上げたのは凪咲ではなく、離れた席に座る男子生徒のひとりだった。


「やっぱそうだ! 久し振りだな、空!」


その男子生徒は嬉しそうな様子で立ち上がり、教室に入ってきた男子に呼び掛ける。

空と呼ばれた彼はその男子生徒を見やると、小さく微笑んで返した。

少しぎこちなく遠慮がちな微笑みだったが、返された男子生徒の方は満足そうに笑っていた。


沙由里が黒板に空の名前を板書している間も、彼は初めての教室や好奇の眼差しを向けるクラスメイト達を前にしても緊張しているといった様子はなく、落ち着いた佇まいだった。

伸びた前髪がうまく目許を隠していて表情は読みにくいが、少なくとも気後れしているようには見えなかった。


自己紹介をこの後に控えた彼から現時点で得られるのは外見的な情報のみ。

そういう意味では、クラスの、特に女子達からは好色のささやき声が聞こえてきた。


ただ、中にはそれだけではなく、知った顔を懐かしむような視線も見られた。

なぜなら彼は、この教室に入るのは初めてでも、転校生ではなかったからだ。


そして、凪咲にとって彼は、それだけではない特別な存在だった。


「去年同じクラスだった人は知っているかと思いますが、長らく休学していた朝海あさみ空君が本日より復学することになりました。

それでは朝海君、みんなになにか一言、挨拶をお願いします」


沙由里が促すと、空は視線を特定の誰かでない教室のどこかに彷徨わせながら、


「朝海空です。よろしくお願いします」


と、表情変えずに淡々とそれだけ言った。

簡素な自己紹介に、沙由里は少し寂しそうな顔になりながらも拍手を送り、彼女に続いてクラスメイト達も拍手を送る。

その中で、彼を知る凪咲や先程声を掛けた男子生徒は拍手を送りながら、大きな戸惑いを見せていた。


凪咲はあらためて空を眺める。

自分より頭ひとつ程高い身長の沙由里よりも、さらに二つ分ほどは高い。スポーツとかやったら、きっとカッコいいだろうなぁと思う。

そして、潮風のような透き通った声に、少し大人びた雰囲気。

どれも凪咲のよく知る朝海空だった。


ただひとつ。

いまの空からは、かつて彼から感じていた夏の太陽は消え、代わりに沈み掛けた夕陽のような儚さを感じた。


そう思ったとき、凪咲は無意識のうちに机の上に置いたペンケースを握りしめていた。


「それじゃあ、朝海君の席は、窓際の一番後ろの……夏花さんの後ろね」


沙由里が凪咲の後ろの席を指差して言う。

その誘導に従い、空が提げていた鞄を左肩に掛けた瞬間だった。


凪咲の目に、覚えのある閃きが飛び込んできた。


――え……?


反射的に自分の薬指に目を遣り、そして、もう一度空の手に視線を戻す。



彼の左薬指に、自分のものとよく似た淡く光る指輪が、嵌めてあった。


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