第3話 大切な友人達
凪咲は現在、父の養次と二人で暮らしている。
母の
それからは二人で店を切り盛りし、店の手伝いや料理以外の家事諸々を凪咲がこなすようになった。
そのため凪咲の朝は早く、学校が終われば、今度は夕方の営業を手伝っている。
その働きぶりを心配して、養次は「無理はしなくていい」と毎日のように凪咲に言って聞かせてきたが、凪咲は頑として聞き入れなかった。
早く家事に馴れて母のように父を支えたいと、凪咲は思っていたからだ。
以前に一度、養次は凪咲が目を覚ますより早くに起きて家事に手を出したことがあるのだが、元々料理以外のことは慈美に任せきりだった養次が家事のいろはを知るはずもなく、自分達の服を一緒くたに洗濯機にかけて服をだめにしたことがあり、凪咲にこっぴどく怒られてからは養次の洗濯機使用禁止令が出されてしまっていた。
そもそも思春期の娘が、洋服ならまだしも、もっとデリケートなものまで父親に洗濯されるなんて許せません!
そんなこんなで今の分担に落ち着いたが、母親譲りで器用な凪咲はすぐに仕事にも馴れ、いまでは当たり前のように家の家事や店の手伝いをこなしている。
凪咲が生まれる前からの、慈美を知る常連さん達からは「お母さんに似てきたねぇ」なんて言われることもあり、嬉しかった。
その頃からは養次も自然と凪咲に家のことを任せるようになったが、いまでもしばしば気に掛けることは変わらなかった。
◇
潮の香りを肌で感じながら、海沿いの道を歩く。
山と海に囲まれた小さな街だが、登山と海水浴の二者を択一せずに楽しめる利点があり、しばしば観光スポットとしてテレビや雑誌で紹介されたりすることもある。
もっとも、観光地とは言え地元民からすれば見慣れた景色に特別何かを感じ入ることもなく、一歩外に出れば閑静な住宅街が広がっているだけで他には何も無い。
ただ、都心からは電車で一時間程度の距離にあるので、そこまで不便に感じることはなかった。
そのこともあってか、近年では都会暮らしから距離を置きたいと考える老若男女様々な都民の移住先として注目されるようになっていた。
途中、見慣れた交差点の前でいつものように足を止め、右手側――海岸とは反対側の道を振り返る。
あの先にある坂道を登ったところに、ひとつの病院がある。
母の入院していた病院だ。
元々体の弱かった慈美は、凪咲を産む前からしばし体調を崩して入退院を繰り返していたが、凪咲が幼稚園に上がるころから徐々に入院生活が長くなり、中学に入る頃にはほとんど退院する機会はなかった。
母に会いに行くために、何度もあの坂道を登った記憶が甦る。
幼い頃は父親が同伴する必要があったので毎日とはいかなかったが、一人で通えるようになってからは、学校帰りに毎日立ち寄っていた。
その坂をしばらく眺めていると、
「あ! おっはよー! 凪咲ぁー」
不意に背後から声を掛けられ、我に返る。
振り返ると、一人の少女が大きく手を振りながら駆け寄ってきた。
「おはよう、
「そうだよ! 凪咲とおそろだな」
と、夏澄は首を傾けて結んだ後ろ髪を凪咲に見せながら微笑む。
太陽の輝きにも負けない彼女の眩しい笑顔は、これからの季節がよく似合う笑顔だなぁ、と凪咲は思った。
彼女、
向日葵色をした明るいくせっ毛の髪と、それ以上に明るい笑顔が特徴の女の子で、運動神経抜群な上にスタイルも抜群なバスケ部期待のエースである。
「にしても暑いねぇー。なんか今年暑くなるの早くない? サーフィンしてる連中が羨ましいわ」
手団扇で扇ぎながら、夏澄は平日の早朝にも関わらず海辺で波に乗る数人の大学生に恨めしそうな視線を送る。
凪咲もつられて眺めながら、また思い出す。
高台にある母の入院していた病院は、病室の窓からこの海を一望でき、よく二人で眺めていた。
吹き込む潮風にあてられながら、元気になったら一緒に遊びに行こうね、とよく言っていた。
あの頃と少しも変わらない波のうねりと潮の香り。
きっとそれらは自分が生まれるよりもずっと前からこの町に色づいているのだろうと、凪咲は頬にかかる髪を左中指で耳にかけながら思う。
と、そこでチカチカとした光が目に入り、気づく。
そういえば指輪をはずし忘れていた。
陽射しにあてられた指輪は一層輝きが増し、すぐ隣にいる夏澄に気づかれてもおかしくないほどだった。
幸い、夏澄は「いいなー、サーフィン! あたしも学校サボって行こっかなぁー」と言って海を眺めていたので気づかれずに済んだのだが。
忘れないうちにはずしておこう、と凪咲は指環に手をかける。
だが、
「あれ? 抜けない……?」
ぬぐぐ、といくら力を込めて引っ張っても抜けない。
角度を変えてみたり、押したり引いたりしてみても一向に抜ける気配はなく、痛い。
なんで?
でもはめてあるってことはちゃんと通ったってことよね?
なのにまったく抜ける気がしない。
もしかして私、この短時間で太った? やっぱり、あの後朝食のおかずに加えて昨晩の残り物のコロッケまでつまんじゃったのがいけなかったんだー! などとちょっぴり後悔しながら指環と格闘していると、
「どしたー、凪咲? なにしてんの」
夏澄が興味深そうな表情で覗き込んでくる。
「えッ!? あ、いや……えっと、実はこれが抜けなくて」
見つかってしまった。
けど、変に隠すことでもなしと観念して左手の甲を夏澄に向けるが、夏澄はしばし凪咲の手を見つめた後、首を傾げた。
「どれ?」
「え? これだよ」反対の手で指輪を指差す。
「だからどれよ?」
と、まじまじと凪咲の指に顔を近づける夏澄。小さく吹き付ける彼女の吐息が指に当たって、少しくすぐったい。
しかし、それほど間近で眺めているにも関わらず、夏澄が指環の存在に気づいている様子はなかった。
「……」
――ん?
「なんもないじゃん。相変わらず細くて可愛い指だけど」
え、細い? よかったぁ。太ってなかったよ。しかも可愛いって言われちゃった。えへへ……って、そうじゃなくてね!
などと心中でブツブツ言っている凪咲をよそに、夏澄は凪咲の指から顔を離すと、
「それより早く行こうぜ。
あっけらかんとした様子で先に進む。どうやら本当に気づいていないようだった。
「あ、うん。そうだね」
だが、あれ程の輝きを放つ指輪を、あの至近距離で見つめて気づかないなんてことがあるはずがない。
ということは、
――もしかして……見えてない?
けど、もしそれが本当なら、一体なんなんだろう、この指環。
もちろん、考えたところで分かるはずもなく、とりあえずは他の人に見えていないならこのままでもいいか、とお気楽な調子で凪咲は夏澄に続いた。
しばらく歩くと、通学路にある公園の入り口付近で、文庫本片手に凪咲達と同じ制服を着た少女が一人佇んでいた。
切れ長の目に整った顔立ちの美人で、佇まいにどこか気品と高貴さを纏っている。本に目を通す傍ら、潮風に靡く漆黒の長い髪を白く細長い指で払うだけの仕草にも洗練された美しさを感じさせ、老若男女問わず道行く人々の視線を集めていた。
「おっはよー! 玲夏ー!」
夏澄の快活な声に少女は顔を上げると、閉じた文庫本を鞄にしまいながら二人に歩み寄ってきた。
「おはよう、玲夏ちゃん」
「おはよう。凪咲、夏澄」
「いやぁ、相変わらず立ってるだけでも絵になる美人だねぇ、玲夏は」
「そうかしら? けど、そろそろ外で待つには厳しい季節になってくるわね」
風を送るように肩にかかった髪を上品に払いながら、
彼女も凪咲達と同じクラスで、三人は一年のときからクラスが一緒だ。
中学校の違う玲夏とはそのときに仲良くなった。
二年生になっても三人変わらず同じクラスだったことに、凪咲はクラス替え担当の先生を心から感謝したのを覚えている。
「たしかに、今年は暑くなるの早いよね」
凪咲の言葉に微笑みで返す玲夏。その上品な笑顔の破壊力たるや、凪咲は夏の暑さにやられたようにふらふらと頭が熱くなる。
「外で私が倒れないように、寝坊しないでね、夏澄」
「む! あたしだけかよー!」
「凪咲が寝坊するわけないでしょ。凪咲、夏澄が寝坊したら、私のために遠慮なくおいてきていいからね」
「大丈夫大丈夫。夏澄ちゃん、部活で朝早い日もあるからそれなりに鍛えられてるよ。ね?」
同意を求める凪咲の視線を受け、夏澄は自信満々と言った様子でその大きな胸を張ると、
「もちろんだぜ! ちゃんと1分おきにアラームなるように10回以上セットしてあるからな。あと、やたら部活メンバーが何人も電話くれるし!」
と、誇らしげに言う。
「それ、部の人たちから一切信用されてないだけなんじゃないの?」
冷めた目で返す玲夏の容赦ないツッコミに、凪咲は困ったように小さく笑って合わせた。
「しっかしホントに暑いな! あたしも学校サボって今すぐサーフィンしたいよー!」
「サーフィン?」
玲夏が首を傾げながら視線で凪咲に訊ねる。
「ああ、さっきね、海辺でサーフィンやってる人を見たの。それで、暑くなってきたし気持ちよさそうだなぁって眺めてたから」
「なるほど。けど夏澄、あなたも部活の練習でよく海辺に走りに行ってなかったかしら」
「そうなんだけどよぉー。ランニング中は遊べないじゃん? 海を横目にランニングとか、生殺しもいいとこだよな。一回我慢できずに飛び込んだら、先輩にめっちゃ怒られたし」
その時のことを思い出して、夏澄は肩を落とす。
「ランニング終わった後じゃあ、さすがに陽も沈んじゃってるし。それに海の家もまだないから、何かあったら危険だしな」
夏澄にしてはまともな見解だ、と感心した表情を見せる玲夏。
そんな他愛ない会話に耳を傾けつつ、凪咲は遥か遠くで円弧を描く水平線を眺める。
あの彼方に続く先の、この世界のどこかに繋がっているであろう場所を想像して。
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