第2話 第一章『指輪』 朝起きたら知らない指輪が左手に!?
いつもと変わらぬ朝に、いつもより瞼が重く感じる目覚め。
朝の爽やかさには似つかわしくない陽気過ぎるアラーム音に、
楽しい気分で一日の始まりを迎えたいからと選んで設定したけれど、このなんとも言えない寝覚めの悪さからして自分には合っていなかったのだろうと、発信源たるスマホを手探りで探しながら思った。
時刻は朝の五時。
気怠さを伴う眠気が、凪咲を襲う。いつもはパッと起きられるのに。
寝返りながら頬にかかった髪を左手で払い除けると、チカッと、強い光が凪咲の視界に入り込んだ。
朝日とは違う、もっと強烈な光だった。
チカチカとした眩しさに急かされ、いよいよ観念して薄く目を開けると、身に覚えのないものが薬指にはめてあった。
淡い輝きを放つ、指輪だった。
「なに、これ……?」
ボーッとした頭のまましばらく見つめる。
寝惚けているんだな、とそう思い、ベッドに腕を投げ出して再び眼を閉じる。
が、すぐに耳元で再びアラーム音が鳴り響いた。
大抵は一度で起きられるのだが、念のために五分ずらして設定しておいた二段構えのアラーム。要するにこれは最終警告である。
「やばッ」
勢いよく上体を起こし、凪咲は改めて左手を見る。
やはり見間違いでも寝惚けているわけでもなく、見覚えのない指輪がたしかに薬指にはめられていたのだ。
不思議な指輪だった。
特に仕掛けや装飾が施されているでもないのに、常に淡い光を放っていた。
金属の輝きとも、電飾のものとも違う。
たとえるなら「炎」が一番近い表現にあたるだろうか。勿論熱くはない。
それどころか、
「きれー……」
自身の幼い指には似つかわしくないほどの美しさに思わず見とれる。
しかも、はめられている指が左手薬指というところに、思春期の乙女らしく何か運命的なものを感じてしまう。
――もしかしてこれって、素敵な出逢いの予感!
勿論、こんな美しい指輪をくれる相手の心当たりなんて、凪咲にはいない。花の高校生にして絶賛彼氏募集中である。いや、募集はしてないけど。
――だって、私は……
自分の世界に入り浸ったままの凪咲を現実に引き戻したのは、一階の店の厨房から流れてきた食欲を誘ういい香りだった。
すでに父親が朝の仕込みを始めたことを察した凪咲は、慌ててベッドから飛び起きた。
六月一日。初夏。
今日から衣替えです。
半袖のワイシャツに生地の薄くなった制服のスカートを、壁に掛けたハンガーからはずす。クリーニング後、はじめて着る夏服は汚れひとつない。
するっと着替えて学校指定の靴下を穿いてから、机の上に置いてあるお菓子の缶に手を伸ばす。テーマパークで売っているお菓子の缶は可愛くて小物入れ代わりにちょうどいい。
その中からヘアゴムを三本取って鏡の前に立つ。
二本は左腕に通して、もう一本を口に咥えながら、肩にかかった後ろ髪を束ねていく。首元に風が欲しいから、今日はいつもよりもちょっと高い位置で結ぼう。
くるん、と。これで準備オッケー。
階段を降りて凪咲が厨房に行くと、いつものように父の
街の住宅街の片隅で小さな定食屋「夏花食堂」を営む凪咲の家の朝は早い。
営業時間は昼と夕だが、豊富なメニューに合わせて早い時間から仕込みを行う必要があり、市場に仕入れに行く日はさらに早い。
「おはよう、凪咲」
凪咲に気づいた養次が厨房から顔を出し、声を掛けてくる。
「おはよう、お父さん。ごめんね。ちょっとのんびりしちゃってた」
「学校ある日くらい、気にせずもっとゆっくりしててもいいんだぞ」
「なに言ってんの、お父さん。朝はやることが多いんだから」
「凪咲……」
「じゃあ、ちゃっちゃと始めちゃうねー」
「……なぁ、凪咲。おまえ、あんま無理しないで――」
「あ、洗濯機かけるけど、洗うもの、もうない?」
養次の言葉を遮るように凪咲が訊ねる。
父の言わんとしていることは分かっている。
これまでにも何度も言われてきたし、それに対する自分の意志も何度も伝えてきた。
「え? ああ……あ、部屋に昨日着たやつがあったかな」
「もう! いつも忘れずに出しておいてくれれば、もう少しのんびりできるんだけどねぇ」
ぷんと大袈裟に頬を膨らませて両手を腰にあてる仕草を見せると、養次はバツが悪そうに頭の後ろを掻きながら「……はい、気をつけます」と弱々しい声で呟いた。そんな養次に凪咲は「冗談だよ」と笑って返し、父の部屋に向かって階段を駆け上がっていった。
洗濯機を回している間、店のテーブル拭きと床の掃除を済ませる。
終わる頃にはちょうど洗濯も終わるので、取り出して干していく。
あとは調味料や割り箸が減っているテーブルにそれぞれを補充したところで、朝の日課は終わり。
八つある店内のテーブルのうち、厨房に一番近いテーブルの上に父親が用意してくれた朝食にありついた。
定番の白米と味噌汁に、今日は出汁巻き卵だ。凪咲の大好物である。
「いただきまーす」
大根おろしをのっけて軽く醤油を垂らして食べる父の出汁巻き玉子は最高である。
「ほい、凪咲。弁当」
「ん。ありがとう、お父さん」
受け取ろうと手を伸ばしたところで、薬指の淡い輝きが目に入ってきた。
指輪をはずし忘れていたことに気づき、咄嗟に腕を止める。
べつに隠しておきたかったわけではないが、正体不明な指輪の詳細なんて説明できないし、返答に窮したことで変な誤解をされても嫌だったので、表沙汰にしないようにと思っていた。
だが、養次は凪咲の薬指に嵌めてある指輪に何も反応を示さず、手を止めた凪咲に「どうした?」と、訝しげに首を傾げていた。
「あ、ううん。なんでもない」
どうやら指環の存在には気づいていないようだった。
ホッと胸を撫で下ろし、凪咲は受け取った弁当箱をナプキンに包んだ。
「あとこれ、母さんに持ってってくれ」
養次はお椀をひとつ、両手で大切そうに持ってきて、凪咲に手渡す。
炊きたての白米が盛り付けられたお椀の中心には、箸が一本立てられていた。
「うん」
受け取って、凪咲はそのまま店の奥に向かっていく。
つきあたりにある小さな和室の休憩室にあがり、すぐ横に置かれた仏壇の上にそっと供える。
添えてある小さな写真立ての中では、温和そうな女性が優しく微笑んでいた。
両手を合わせてゆっくりと目を閉じ、凪咲は写真の女性にしばし語り掛けてから、ゆっくりと目を開ける。
「行ってきます」と言って立ち上がり、テーブルに戻って弁当箱を鞄にしまった。
「それじゃあ、行ってくるねー。お父さん」
店の扉を開けると、舞い込んできた潮の香りが凪咲の鼻腔をくすぐった。
一歩外に出れば、通りを挟んで海を一望でき、朝日に照らされた海面の輝きが彼方まで揺らめいていた。
袖の短くなった夏服が潮風との距離を縮め、肌を撫でる暖かさが先月までとは違う熱を感じさせる。
本格的な夏が、もうすぐやって来る予感がした。
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