昏迷

 小さなころから、本を読むのが好きだった。




 本を読んでいる間、僕は何にでもなれる。

 国で一番えらい王様にも、きれいなお姫様を果敢に守る騎士にも。

 はたまた、たくさんの部下を引き連れた海賊船の船長になれる時もあれば、世間をにぎわす大怪盗にだってなれる。

 時には、人間じゃないもの――犬や猫みたいな動物にだってなれるし、ユニコーンやグリフォンのような、幻想の生き物にだってなれる。

 超能力の使い手や、神様の子どもになれる時だってあった。


 そうして、僕は、本の中の世界で、毎日のようにたくさんの冒険をした。

 本の中で、僕はいつでも物語の主人公だった。

 物語の世界にいる間の僕は、何にでもなれて、何でもできる。

 それが、ただただ楽しかったんだ。




 いつからだっただろう。

 ただ、空想の中で物語の主人公になりきるだけでは、満足できなくなったのは。

 僕ではない誰かが主人公になって、心の底から冒険を楽しむための物語を「書きたい」と願ったのは。

 僕の作った物語で、誰かを楽しませたいと思うようになったのは。


 気が付けば、僕は、ひまさえあればペンを紙の上に走らせるようになっていた。

 僕の知っている言葉を頼りに、空想の世界を自由自在にかけ回って、物語をつむいだ。

 いつか、誰かが僕の作品を読んで、笑顔になってくれることを信じて。

 夢中になって僕の作品を読んだ後、「楽しかった」「面白かった」と、そう言ってくれることを信じて。


 だけど――




「うーん。読みやすくはあるけど、何だかいまいちだねえ」




 高校生になってから入部した、あこがれの文芸部。

 初めて提出した、文集にのせるための作品を読んだ副部長は、その一言で僕の作品を切り捨てた。


「いまいち……って、あの。どこが、どうだめなんでしょうか?」


 僕の問いに、副部長は悩ましげにうなった。


「何というかね、テーマが見えてこないんだよ。この作品が結局のところ、何をメインに伝えたいのか見えてこない。面白くはあるんだけどね」


 正直、ショックだった。

 少しでも、読み手になる誰かに、僕の考えた世界観や物語で、楽しいって思ってもらえればと思って、小説を書き続けてきた。

 読み終わった人が笑顔になってくれるような、そんな作品を書きたくて、努力を続けてきた。

 けれど、今の僕の実力じゃだめなんだと、一蹴されてしまったような気分だった。


 ――伝えたいものが見えてこない。


 それは、今まであまり意識せずに、ただ思いつくままに面白そうだと思ったことを書くだけだった僕にとって、あまりにも致命的な弱点のように思えた。


 そして、それよりも、何よりもショックだったのは、僕たちのやり取りを黙って見ていた、部長の言葉で。


「私も、少し気になっていたの。松原君、これ、部誌にのせる原稿でしょう?」

「は、はい」

「うちの部誌の主な読者は、この学校の生徒だったり、外部から来る他の生徒だったり……卒業生や、生徒たちの保護者みたいな、大人たちでもあるの。それは、分かっている?」

「……ええと、一応」


 嘘だ。

 本当は、そんなことさえも、きちんと意識して書いたことはなかった。

 知ったかぶりを決め込んだ僕の心の内を見抜いてか、部長は肩をすくめて、困ったように言ったのだ。


「ごめんなさい、今後のためにもはっきり言わせて。さっき私の言ったようなターゲットに向けて出す文集に、この文体と内容は、正直不釣り合いだと思う。今のこれは、児童文学……に、近いんじゃないかな。もう少し、読者の年齢層を考えて書かないと」


 この一言が、効いた。


 僕は、どうも無意識に、僕自身よりも年下の子どもたち――小学生や中学生の子に読んでほしいと意識して、小説を書いていたらしい。

 でも、それでは、この環境では書いていけない。

 面白い話は、書けない。

 そう言われてしまったようで、目の前が真っ暗になった。






 それ以来、僕は、思うように小説が書けなくなった。

 いくら現実から離れて、別の世界を空想しようとしても、出来ない。

 物語の景色や登場人物たちの話し声が、上手く浮かんでこない。

 そもそも、自分がどんなものを書きたいのかも、もう、分からなくなってしまった。


 それでも、文芸部に入っているということだけが、僕の最後のとりでだった。

 文芸部に入っている以上、部の文集にのせる作品を書かなきゃいけない。

 それを書いていれば、いつかはまた、僕は、僕の書きたい物語を、取り戻せるんじゃないかと思っていた。


 でも、実際はそんなに簡単な話じゃない。

 書いても書いても、思うような作品は書けなくて、いらだちと焦りがつのるばかり。

 しまいには、文芸部に入部した記念にと、父さんがプレゼントしてくれた万年筆から不思議な声を聞く始末だった。


『物語を創り上げるのにお困りかい? 我が主』


 初めは、夢でも見ているんじゃないかと思った。

 だって、万年筆がしゃべるだなんて、そんなことがあるわけない。

 それでも、万年筆がしゃべったのは、夢でも何でもなかったようで。


『もしも、君がまた、自分の思うままに、物語をつむぎたいと言うのなら。その手で、すばらしい物語を創り上げたいと言うのなら。願いをかけたまえ、我が主』

「願い、を?」

『そうだ。そうすれば、私の持てる力の全てをもって、君の〝願い〟を叶えよう』


 そんな言葉を聞いて、僕は、思ってしまった。


 もしも、本当に、この万年筆に、願いを叶える力があるのなら。

 僕は、その可能性にかけてみたい。

 小説を書き始めたばかりのあの頃のように、何も考えず、ただ、思うままに物語を書きたい。


 そして、願わくば――




「僕にしか書けない物語で、子どもたちを笑顔にしたい」




 すると、不思議なことに、万年筆がいきなり、強く光り輝いた。

 まぶしい光が収まった後には、ごくごく普通の見た目の万年筆が残されていただけ。


「……そんな都合のいい話が、あるわけないか」


 そう思いながら、原稿用紙に物語を書き始めた、その時だった。


 突然、原稿用紙につづった文字が光り始めたかと思うと、僕の書いた一文字一文字が、突然空中に浮かび上がったのだ。

 それらは、空中で寄り集まって一つの集団を形作る。

 そして、その文字の集まりは、やがて、僕が書いていた物語の登場人物――チェスのコマをモチーフにした、白と黒の鎧の騎士に変わったのだった。


「えっ……えっ?」


 最初は、夢じゃないかと思った。

 けれど、何度目をこすっても、まばたきをしても、騎士はそこにいた。


「まさか」


 まさか……僕の書いたことが、現実になった?

 現実になってしまうほどの面白い、誰かを笑顔にできるかもしれない文章が、僕なんかにも、書けたっていうこと?


「……ははっ」


 何だ。

 最初から、こうしていればよかったんじゃないか。

 初めから、この万年筆に願いを込めていれば、僕にだって、面白い物語が書けたんだ。


 この時の僕は、本気で、そう思っていた。

 そうして僕は、この力を――この万年筆で書きつづったことを、現実にする能力を手に入れたんだ。




 だから、ほら。

 今だって、白黒の騎士たちが、城を襲う敵を前に、勇敢に戦っている。

 どちらが勝つのだろうか、その結末はまだ分からないけれど、どちらが勝つか分からない展開は、誰もが手に汗握るものだと思う。

 きっと、こんな物語なら、誰が読んだって、面白いと思ってもらえる。


 だから、読んでみてよ。

 僕、やっと、面白いと思ってもらえそうな手応えのある物語を、書けたんだ。


 だから――


「(……あれ?)」


 だから――何?

 その先に続けたかった言葉が出てこなくて、戸惑う。




 僕は、何のために、物語を書いていたんだっけ?


 一体、誰に、この物語を読んでもらいたいんだっけ?




 ……分からない。


 もう、何も、分からない――――

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