ヒーローの涙
陽はすっかり山の向こうに落ちて、空には星がまたたき始めている。
最終の下校時刻を過ぎた校舎裏は、少し寒いくらいに冷え込んでいた。
「はやちゃん、はやちゃん」
気を失っているはやちゃんに、何度も声をかける。
あの後すぐ、彼の手から巻物は回収しているから、目覚めてすぐに何かすることはできない……はず。
そう確信して、はやちゃんを起こそうとしているんだけど……
それにしても、あのひざ蹴りは、ちょっとやりすぎちゃったかなあ。
起きたらちゃんと謝らなくちゃ。
そう思って、もう一度名前を呼ぼうとした時だった。
「うー、ん……」
小さくうめき声を上げて、はやちゃんが身じろぎをする。
「はやちゃん!」
ゆっくりと目を開けたはやちゃんに、思わず大きな声が出る。
「……千春どの……?」
拙者、今まで何を?
そう言いかけたはやちゃんが、痛そうに顔をしかめて、あごを押さえる。
あ、そこ、あたしがさっき思いっきり蹴っ飛ばしちゃったところだ。
「ご、ごめんはやちゃん。痛かったやんね?」
あたしがおろおろしながら言うと、はやちゃんは「何を言っているのでござるか」と笑う。
「むしろ拙者は、お礼を言いたいぐらいでござるよ。シャトンどの」
「へ? ……もしかして、バレとった?」
「もしかしても何も、色々と分かりやすすぎるでござるよ。帽子とか、話し方とか」
心底おかしそうに笑って、はやちゃんはあたしを見上げてくる。
「ありがとうでござる。命がけで拙者を止めてくれて」
それから、あたしが手に持ったままの巻物にちらりと目をやって、あたしのとなりで三角座りをした。
「拙者はね、本当に、ちょっとでいいから、いじめられている人の力になりたかっただけなんでござる」
抱えた膝を見つめるはやちゃん。
その話を、あたしは黙って聞いていた。
「初めは、ただ、いじめられている人の大切な物を、ちゃんとあるべきところに返せれば、それで良かったのでござる。それで、その人がまた、少しでも笑顔になってくれるなら、それだけで良かったのでござる」
「うん」
「でもね、拙者、巻物を使っているうちに、だんだん、ただ物を取り返すだけじゃなく、いじめっ子たちに仕返ししなきゃ、気がすまなくなっていったのでござるよ」
「……そうやったん」
こくんとうなずく、はやちゃん。
ずず、という音がする。鼻をすするような音。
「だから拙者、最後のほうは、いじめっ子に天罰を下すんだ! と思って……それを言い訳にして、彼らから大切な物を取り上げて……結局は、拙者のことをいじめていた人と、同じことをしてしまったのでござる」
また鼻をすすって、はやちゃんは、星のまたたき始めた空を見上げる。
そして、ぽつりと、自分に言い聞かせるように、つぶやいた。
「やっぱり、拙者のやっていたことは、間違っていたのでござるなあ」
その声は、少し鼻にかかったようで、今にも泣き出しそうに聞こえた。
あたしは、しばらくその言葉の余韻を、じっくりと噛みしめる。
はやちゃんは、戦う前に、他人を助けるために行動するだけの勇気が無かったって言った。
それでも、間違っていることを間違っていると正しく受け止められる心があった。
誰かを助けたいと思う勇気が、しっかりと、心の中にあった。
だから――
「それでも、『ねずみ小僧』は、誰かにとってのヒーローやったと思うで。はやちゃん」
あたしは、そう言いながら、服のポケットを探る。
そして、不思議そうにするはやちゃんに、一通の手紙を差し出した。
小さな花のもようが散りばめられた、可愛い封筒に入った手紙。
「これは?」
「ねずみ小僧さんあての手紙やで」
開けてみて、と、うながす。
困惑したように、はやちゃんはその手紙の封をていねいに切る。
そして、中に入っていた便せんを開いて――
「っ!」
驚いたように、息を呑む声。
手紙を持つ手が、わなわなと震えている。
「……確かにねずみ小僧は、最後はちょっとだけ、悪いことをしてしもたかもしれへん」
あ、あ、と、のどの奥から、声をもらすはやちゃん。
「それでもね。はやちゃんに感謝しとる人は、確かにおるねんよ」
その瞬間。
はやちゃんの目から、ぼろぼろと涙があふれ出した。
ほおを滑るようにしてこぼれ落ちていくそれは、ぽたぽたと便せんに落ちて、紙の上に染みを広げていく。
便せんに書かれていた文字が、ところどころ、にじんでいた。
――この手紙は、昨日、あたしがねずみ小僧の机に手紙を入れて帰ろうとしたところで、3組のあの女の子が渡してきた物だった。
『ねずみ小僧さんに、渡してください』
そう言われたときはびっくりしたけれど、理由を聞いて、あたしは納得した。
その子は、はやちゃんがねずみ小僧として、いじめっ子から取り戻した物を返した相手の一人だったんだ。
「その子、すっごい喜んどった。自分の味方なんか誰もおらん、宝物も戻ってこん。そう思って落ち込んどったけど、ねずみ小僧が――はやちゃんが、宝物を取り戻してくれたから、ほんまに嬉しかったんやって」
「……っ、……っ!」
ぐしぐしと、涙をぬぐうはやちゃん。
それでも、どれだけ目元をぬぐっても、涙は止まらないみたいだった。
そんなはやちゃんの頭を、ぽんぽんとなでながら、あたしは言った。
「はやちゃんのしたことは、全部が全部、許されることではないと思う。それでも、はやちゃんが勇気を出して行動したからこそ救われた子も、ちゃんとおる。それを、忘れんとってほしいんや」
すると、いよいよ、はやちゃんの涙腺は決壊したらしい。
「うっ……ぐす、うあああああんっ!」
はやちゃんは声を上げて、子どもみたいにわんわん泣き始めた。
涙だけじゃなくて、鼻水までたらしながら。
今までがまんしていたものが、全部あふれだしたかのように。
「せ、拙者……ちゃんとっ、誰かの力に、なれたでござるか?」
「うん。なれたんやで」
はやちゃんの言葉に、ゆっくりとうなずく。
「拙者がしたこと、はっ、悪いことばっかりじゃ、なかったでござるかっ?」
「そうや。言うたやん、はやちゃんのおかげで救われた子もおるんやでって」
「……そうで、ござるかっ……!」
後悔に押しつぶされそうだった心を救った、一通の手紙。
たった一通の手紙だけれど、そこにつづられた気持ちは、確かにはやちゃんの救いになった。
「ち、はる、どのっ」
「なーに? はやちゃん」
ひっくひっくとしゃくり上げるはやちゃんに、答える。
「お手紙、届けてくれてっ、ありがとうでござるっ」
「どういたしまして」
「せ、拙者のことっ、助けてくれてっ、ありがとうでござる……!」
「そんなん、お礼なんか、言わんでええよ」
はやちゃんにハンカチを差し出して、あたしは心からの笑顔を向けた。
「だって、うちら、友達やんか」
その言葉に、はやちゃんは、大きく目を見開いて。
それから、涙と鼻水でぐっちゃぐちゃになった顔で、笑ってくれたんだ。
「……うんっ!」
バイオレットの空の下で、あたしたちは、手を握って笑いあう。
あたしの目尻にも、ちょっとだけ涙が浮かぶ。
はやちゃんが手に持ったままの便せんの、「ありがとう」の5文字が、一番星のように、きらきらまぶしく光って見えた。
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