第10話 ラブホ

1

 

「夕子、あなたにハガキが届いてるわよ」

 そのハガキが届いたのは、安倍の美容室に行ってから三日後だった。

「誰から……?」

「……で、変なのよ……。裏は真っ白で全部点字で書いてあるの」

 夕子はハガキを手に取り、指先で撫でる。

 

 ――ボ、ク、ハ、キ、ミ、ノ……。

 

 一行だけの文章の下には『アベヒカル』と打ってあった。

「…………ふふふ、……バカ……」

 

 ――安倍さん、点字、いつの間に勉強したの? なんとも言ってなかったのに……。

 

 胸がいっぱいになる。涙が湧き上がる。

「何て書いてあるの?」

「君の……君の光になる……だって……」

「きゃ、それラブレターじゃないの?」

 

 ――会いたい。安倍さんに会いたい。

 

2

 

 次の月曜日、いつもの駅で安倍と会った。

 昨日の安倍からの手紙のことが頭に蘇る。胸が高鳴り、言葉が出なかった。

 気のせいか、安倍の口数も少ない。帰る途中に、二人はいつもの駅から十分くらいの駅で電車を降りた。

「……この間はすみません。少し留守していて……」

「いいえ、私が勝手に……。それに麗さんによくしてもらって、ホントに助かりました」

 秋の空には珍しく暖かな風が夕子の髪を揺らした。少し風が強い。

「お天気……。台風でも来そうな風ですよね?」

「はい、今夜は少し暖かいので降るかも知れませんね。でも、今は星が空いっぱいです」

「星……キレイですか?」

「……ええ、とても……空気も澄んでいて気持ちのいい夜です」

 脂の香ばしい匂いや甘い菓子のような匂いに迎えられた。安倍と腕を組んでいた。商店街の割に雑踏は感じられなかった。

 安倍が大きく深呼吸した。

 夕子も大きく息を吸い込む。昼間とは違い透明な空気が胸いっぱいに満たされる。その中に安倍のトニックシャンプーの匂いを感じた。

 

 *

 

「安倍さん、ハガキ……」

「ああ、届きましたか? 少し心配だったんです。届くか、どうか……」

「点字……」

「ああ、通販でセットを買って、それで……間違っていませんでしたか? 完全に独学なので……」

「はい、完璧でした」

「あははっ、そっか、よかった」

 夕子と組んだ逆の手が彼の頭の方に動き、ポリポリと掻いているのが分かる。

「ふふふ、安倍さん、小学生みたいですね。私とても嬉しかったです」

 夕子は空を見上げた。目が潤んでくる。

「ああ、もうそろそろ帰らないと……」

 安倍が呟く。

 指先で指触時計を撫でた。午後九時四十分。

 

 ――帰りたくない……帰りたくない、って言わないと……。後悔……後悔するのはイヤ……。

 

「……安倍さん……もしよければ……私、もう少し一緒にいたいです。安倍さんと……」

 胸が高鳴った。

 安倍の腕に強く夕子を引き寄せられる。トニックシャンプーの匂いが近くにあった。

「いましょう。今夜は一緒に……」


3

 

 ガラガラと、あちらこちらでシャッターがけたたましく引き降ろされている。薄い鉄板が弾ける音が響いた。

「……もう……閉まってしまうんですね。まだ早い時間なのに……」

 夕子が呟く。

「ほとんど、お客さんがいなくて閑散としているので……」

 暖かい風が湿気を含むのが分かる。風がゴウと音を立て商店街を抜ける。安倍から引き離されそうで、安倍の腕を固く組んだ。

「あ、雨、降りますよ。安倍さん……」

 土やホコリを洗い流す独特な匂いが湿気を含んだ空気を感じた。道路を洗い流すようなサアっという音の後パリパリと雨粒が跳ねる音が聞こえた。

「走れますか?」

 夕子は小さくうなづいた。夕子は小走りで走った。安倍に引かれて。

 雨音が小さくなった。

 安倍の足が止まった。

 コツコツとヒールがある靴が小走りで夕子の前を通る音がした。跳ねるようなペタンペタンという固い靴の音があとから駆け抜けた。それを追うように……。ピシャピシャと夕子の足元を濡らす。

 夕子の目の奥にぼんやりと光を感じた。

「ああ……助かりました。ここは……安倍さん……?」

「…………ここは……ホテル……。ラブホテルの前です」

 

 ――ラブホテル……。

 

 夕子にもラブホテルの意味は分かる。夕子は小さく息を吐いた。

「……入りましょう。ホテルの中……」と、夕子が呟く。

「えっ……大丈夫ですか?」

 と、安倍の息のような声が夕子に訊ねた。

 夕子は安倍の腕を強く引き寄せた。その手の甲に安倍の手のひらが重なる。

 

 ――安倍さんの手、温かい……。安心する。

 

 安倍が歩を進める。

 モータが唸る音が聞こえる。自動ドアだ。溢れ出した温くも冷たくもない人工の空気が夕子の髪を揺らす。どこかに革製品があるのか、新品の革靴のような匂いがしている。ホテルだというのに誰の声も聞こえなかった。


 

 夕子は毛足の長い絨毯に案内されるように歩を進めた。

 上に吸い込まれるような感じがした。エレベーターだ。革製品の匂いが遠ざかる。

「ここ……この部屋です」

 重厚な扉の音が聞こえた。押し出された空気が髪を揺らした。

「……入りましょう」

 と、安倍が息を飲むような声で促す。少し入ったあとで、カンとドアを施錠する固い音が響いた。

 胸が高なる。

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