第9話 美容室

1

 

  夕子は安倍の美容室がある駅に降り立った。土や碧い草木の匂いを胸いっぱいに吸い込んだ。

 そう遠くはないはずだ。夕子は安倍と歩いた道を思い出しながら行く手を探りながら歩を進めた。

 何かの息づかいが聞こえた。それは早足で歩いたときのようにハアハアという少し苦しそうに聞こえた。

「ほら、チャッピィ、ダメ、そっちに行ったら……」

 若い女性の声がした。少し息が上がっている。そのあとにパタパタを靴の音が引きずられるように夕子に近づく。

 夕子は立ち止まった。

 目の前で短く苦しそうな息づかいが止まった。

 ワン。野太い声が少し控えめに吠える。

 

 ――犬……。それも大きな……。

 

「ああ、ゴメンなさい。家の子が歩くジャマをしちゃって……」

 若い女性の申し訳なさそうな声が控えめに言った。その近くで、浅く速い犬の息づかいがある。

「あ、大丈夫ですよ。お散歩ですか?」

「うん、いつもは朝にお散歩するんだけど、今日は少し遅くなっちゃって……大変なの。散歩に連れてけ、連れてけってまとわり付かれちゃって……」

 と言うと女性は小さく息をついた。

「あの……、私、チャッピーちゃん、撫でてもいいですか?」

「あ、どうぞ。撫でてあげて」

 温かい手が夕子の左側の手首を持つ。スッと手のひらを降ろすと、ふかふかの絨毯のような感じが手のひらにあった。それは微動だにしなかった。

「賢い子ですね? ゴールデンですか?」

「……うん、あたり。でも、お姉さん、よく分かるね?」

 女性の声が高くなった。

「私が小さいとき、飼ってたので。ゴールデン……」

 ぬいぐるみのような手触りがふっと上に動いた。犬の顔が自分を見上げているようだ。

「ああ、そう……賢いのね、あなた……」

「お姉さん、チャッピィとお話してるみたい」

 その横でクスクス笑う女性の声が聞こえた。

 

2

 

「あの、私、道探しているんですが……多分、美容室だと思うんですけど……安倍さんっていう人がやってるんですが……」

「ああ、もしかして……あ、はい、私が髪切ってるお店かも……」

「肘か肩、貸してもらってもいいですか?」

 と、夕子は左手を女性の肩に置いた。

 夕子の右横を次々とエンジンの音が近づいては遠ざかる。その度、衝撃のある風が夕子の髪をなびかせる。

「最初に来たときより、車通りが多いみたい……」

 身体に力が入る。振動と共に、大きな車の音が次から次へと近づく。

 女性が立ち止まり、細い腕が夕子の腕を通った。

 身体の力がすうっと抜けた。

「今は歩道だからね、大丈夫だけど、時々自転車が危ないの」

 夕子の後ろでキィっという音がして、チリンチリンとベルの音がした。ビクリとして転びそうになった。

 

2

 

 女性の足がスッと止まった。

「お姉さん、ここだよ」

 と、女性が言うとコロンコロンと優しい空洞のある木を叩いたような音に迎えられた。

 

 ――この音……。

 

 安倍と来たときに聞いた音だ。

「こんにちは。あの……お客さん……安倍さんに……」

 高い女性の声が呼びかける。

「ああ……ミキちゃん、チャッピィも一緒に偉いわねえ」

 チャッピィの野太い声が短く吠え、クンクウンと喉を鳴らす。

 落ち着いた女性の声がゆっくりとミキに話し掛ける。

 

 ――この声……どこかで……聞いた事が……。

 

「ああ……オーナー、今までいたんだけど……」

 

 ――オーナー? この間は安倍くんって……。

 

「安倍さん、足くじいちゃったって……」

「ああ、高い場所で足踏み外しちゃって。でも、もう大丈夫そうよ……」

 フワリと石鹸の匂いがした。

 

 ――あ、あのときの……。

 

 夕子は後ろに振り向いた。「ありがとう」とミキの方に手を振る。石鹸の匂いに頭を深々と下げた。

「あの……駅で……私、立花夕子です」

「ええ、覚えてますよ。名前も言わずにすみません。高橋麗たかはしれいと言います。この美容室のスタッフというか……中に入って……」

 と麗が告げたあと言った。

 

3

 

「今日はお一人で……?」

 麗の手のひらが夕子の肩を静かに押した。再び、コロンコロンと優しい音がした。ドライヤーで髪を乾かしたときのような匂いと石鹸の匂いに包まれる。

「いえ、途中でチャッピィちゃんとお散歩中のミキさんに連れてきていただきました」

 沸々と夕子の心の奥で何かが煮えたぎる。

「あの……高橋さんは…………安倍さんの……安倍さんとお付き合い……」

「…………ねえ、だとしたら……?」

 麗の声が静かに低い声で聞いた。

「私にはないです。勝ち目が……。だけど……」

「だけど……?」

「負けたくないんです。あなたには……」

 夕子の後ろでカタっと音がした。膝の裏に冷たい感触があった。パイプ椅子だ。

「どうぞ」

 と、麗に促され腰を降ろした。椅子がキュっと鳴いた。

「知ってる? オーナーが、なぜ足をくじいたか……」

 夕子は小さく首を振った。

「世界が知りたいんだって……」

「……え? 世界……」

「……ええ、あなたと同じ世界を……ね」

 

 ――私の世界……?

 

「えっ……私の……ですか?」

「オーナーは知りたいの。あなたが感じてる空気を……」

 ――私が感じてる空気……?

 麗が続ける。

「……だから、目隠しして、傘を杖にして階段を降りてるとき、最後の二、三段を踏み外して……」

「……落ちられた……んですか? でも、なぜ私の……?」

「……好きなのよ、あなたが……」

「だけど……麗さん……」

 麗の冷たい手が夕子の手首を取る。指先で彼女の細い指を撫でる。冷たく固い物が指先に触れた。

 

 ――指輪……?

 

「そう、私……夫がいるの」

 ――私……何やってるんだか……。

 夕子の中の時間が止まっていた。


4


「じゃあ、私は……」

「……オーナー、多分、すぐに戻ると……」

 夕子は顔を小さく横に振った。

「じゃあ、夕子さんがいらっしゃったと……」

「……いえ……麗さん、私から連絡します。勝手にお邪魔してすみませんでした」

 夕子は椅子から立ち上がり、石鹸の匂いのする方に頭を下げた。

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