第16話 提出

 大きく両手を振って、大声で叫んで、発車直後のところを無理矢理呼び止めた。

 廃工場を見下ろすカーブまで駆け戻った僕は勢いそのままバスに飛び乗った。座席につくなりスケッチブックをめくる。乱れた息を整える暇も惜しい。まばらな乗客たちから向けられる奇異の視線も無視だ。

 めくってみて驚いた。鉛筆でデッサンをする姿しか見たことがなかったけれど、大雅の絵には、実は驚くほどたくさんの色が使われていた。学童クラブで描いた線画に家で色を付けているらしい。

 児童館の裏庭。遊具。他にも色々なものが細かく描写されている。特に僕の目を引いたのは草花の絵だった。施設の前庭にある花壇。遊戯室の窓辺に置かれた花瓶。一輪挿し。雑草にしか見えないもの。雑草にしか見えないものの中に咲くもの。

 廃工場の写真を見た大雅が『汚いけど格好良い。頑張って、たくさん働いた証拠』と言ったことを思い出した。物事の良いところを見つけようとする眼差し――。

 写真と同じだ。何をどう切り取るかにその人が表れる。寡黙な大雅のひたむきな心を無責任な言葉で傷つけていた自分のことが、改めて恥ずかしくなった。

 白紙の一枚に折り目を付け、適当なサイズに切り取らせてもらった。昨日、専用シートに自分が何を書いたかはおおよそのところを覚えている。けれど、今、まったく同じ内容を書く気にはとてもなれなかった。

『ひとり親家庭への支援施策』。講義を改めて思い返しつつ、車体の揺れに悩まされながらもあれこれ感想を書き込んだ。最後に、ひとり親家庭の子供の学習支援に関して、学童クラブに専門のサポーターを配するのは手かもしれない、という拙い意見を記した。学習支援と同時に心のケアもできるような、そんな誰かがいればきっと心強い。

 大学前でバスを降りたとき、時刻はまだ午後四時五十七分だった。奇跡だと思った。生まれて初めて赤の信号で足踏みなんていう漫画じみた真似をした。

 青に変わった。駆け出した。夕暮れのキャンパスは人もまばらだ。正門から本館へと至る放射構図の、その収束点に向かって全力疾走。

 夕日を浴びた校舎が銀杏並木の向こうでオレンジ色に輝いていた。篝火のような頼もしい光。勢いよく立ち昇る何かが、どんなにみっともなくても構わないから一生懸命走って来いと僕を呼んでいた。

 正面玄関から飛び込んだ。入って右奥、学務の向かいの壁に教授たちのネームシールが貼られたボックスがずらりと並んでいる。一部には『レポート提出用』や『相談票入れ』といった張り紙がされている。

 薄暗い廊下に米本教授の姿はなかった。

 弾む息もそのままに、スマホを取り出して時刻を確認する。

 午後五時〇二分。

 ダメだった。

『だっさ』といつか鼻で笑ってやった、健斗から聞いた昔話の中の、あの名前も知らない一年生のようにすら僕はなれなかったわけだ。

 しばらくその場で呆然としていると、

「……いえ、とんでもないことです。ええ、はい、分かりました。そうします。いえ、ははは。まさかまさか、とても断れません」

 曲がり角の向こうから楽しげな話し声が近付いてきた。

 まだ駆け足だった心臓がさらに強く跳ねた。米本教授だ。

 教授は電話をしていた。こちらに気付いて、厚ぼったい二重の目を何度か瞬いた。汗みずくな上にあちこち傷だらけ。くたびれきった僕の姿に面食らったのかもしれない。

「はい。はい。ええ、分かりました。そのときは。いえいえ、私も嬉しかったです。いずれまた。ええ必ず伺います。はい。楽しみにしています。はい。はい。失礼します」

 静かに通話を終えた教授は自分のボックスに向かった。

 鍵を開けて専用シートの束を取り出した。回収前だったらしい。

 僕はスケッチブックを脇に抱えた。

 勇気を振り絞って教授の背中に近付いた。

 両手で用紙を差し出して、深く深く、深く頭を下げた。

「一年の内海といいます。……その、提出、遅くなって申し訳ありません」

 教授が振り向いた。やたらと大きく跳ねていたり変な所で曲がっていたり、不揃いな文字でコメントを記したそのシートが切り取った画用紙であることに気付いたらしい、困惑が伝わってきた。

 ややあって、聞こえたのは苦笑交じりの軽い溜息だった。

「次はないぞ」

 手から用紙が抜き取られた。

 受理された。

 予想外の運びに気持ちが追いつかなくて、気の抜けたありがとうございますしか言えなかった。疲れと安堵感が一度に来た。頭がぼんやりして動けない。

 そんな僕の肩を、擦れ違いざまに教授が叩いた。

「美味かったか、環さんのタケノコ料理」

 思わず振り返った。

 目が合った。

「君も松田荘なんだろう?」

 教授は軽い足取りで行ってしまった。

 膝から力が抜けた僕はそのまま廊下にへたり込んだ。

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