第15話 決意

 前に来たときとは森の雰囲気がまったく違って感じられた。梢に高く見える空は黄昏色たそがれいろで、まだ明るい。それなのに自分の周りだけやたら暗くて湿っているような。

 懸命に走れば走るほど視界が狭まっていく。左右の木立が次第に消えていく。急勾配を駆け上りながら、いつか夢の中で見た巨大な暗闇を真っ逆さまに落ちていく感覚に囚われた。

 あえて覗く必要もないような暗がりをどうして覗いたりしたんだ? 

 そう何かが僕を責めていた。逃げずに戦っただけだ、とすぐさま言い返した。そう、立ち向かったんだ。青臭い悩みだからといって恥じたり遠ざけたりせずに。そうやって正面から向き合わなければならないときが誰にだってあるじゃないか。

 大雅まで巻き込んで? 

 違う。巻き込むつもりなんてなかった。今だってない。僕はただ、この世界の本当を、真実を、真理を、大雅にも教えてやりたくて、分かち合いたくて――。

 言い訳ばかりの餓鬼っぽい自分がいやに小さく感じられた。ホントウだとかシンジツだとかシンリだとか、そんな掴み所のない言葉を並べ立てて守りを固めた気になっていたことが恥ずかしい。

 逃げずに戦った? それこそ本当か? 独りよがりでずるい僕は、初めから逃げ場所を用意していなかったか。何となれば受け止めてもらえる、温かくて安全な場所のことをあらかじめ知っていて、その上で世界をくさしてはいなかったか。悲劇の主人公ぶりたい、自意識過剰な、ただの思春期こじらせ野郎じゃなかったか。

 ――何も終わってないよね?

 そう大雅に聞かれたあのとき、僕は何と答えたのだったっけ。ろくでもない現実への抗体を付けてやる? 何様のつもりだろう。自分が同じ事をされたらどんな気持ちだ? 誰よりも痛みを分かち合えるはずのお前が、一番強く握っていてあげなきゃいけない手をどうして放したりした?

 膝を抱えた大雅が光も届かないほど深くて大きな穴の底へゆっくりと落ちていく幻を見た。青ざめた瞬間、僕は施設を囲う錆びたフェンスに身体ごとぶつかった。

「大雅――っ!」

 僕の絶叫に驚いたらしい、森のどこかで鳥たちが飛び立った。

 すぐには動けなかった。項垂れたまま息を整えた。

 汗が目に染みる。鉄線が食い込んで指が痛い。喉も胸も痛い。

「大雅」

 返事はない。それでも、繰り返し名前を呼びながらフェンス沿いに進んだ。

 回り込んだ工場正面側の空虚な広さに対して、半ば森に侵された側面は恐ろしく見通しが悪かった。そこを突っ切る僕の顔や腕は硬い枝や木の葉で散々傷付けられた。

不法侵入になるのは承知で、見つけたフェンスの破れ目から中に入ってみたりもした。空っぽの構造物たちはどれもこれも僕の呼びかけに物音一つ返さなかった。

 そうこうしている間に敷地を一周してしまった。どうもここにはいないらしい。だったら一体どこに行ったのだろう。安堵と落胆が相半ばする複雑な気持ちで、健斗と合流しようと振り向いたときだった。

 太い杉の木を背にして座る、ポカンとした表情の大雅と目が合った。

 僕は膝から崩れ落ちた。大きな大きな溜息が出た。

「……バカ。返事くらいしろ」

 恥ずかしさを乱暴な言葉でごまかした。大雅、大雅と叫びながら走り回る僕の姿は随分と滑稽だったことだろう。

「ごめんなさい」

 大雅は素直に頭を下げた。僕が近付いてもスケッチブックを閉じなかった。描きかけの廃工場に視線を落としたまま、かなり経ってから、パパは、と声を震わせた。

「ぼくに、いつも物事の良いところを探せる人に、なってほしいって。それから、ママのことを頼むって。……ママの良いところをたくさん知ってるはずなのに、パパ、自分じゃどうしてもダメだったんだって」

 僕は大雅の隣に膝をついた。

「大雅はそれで良かったのか」

「……最後の日には、パパもママも泣いてた。『喧嘩両成敗』だから、僕はもういい」

 腕を回して抱きすくめると、大雅は僕の胸に強く顔を押し付けた。肩を震わせた。嫌だ嫌だと大声で泣ける我儘な僕たちだったなら、何かが変わっていただろうか。少しだけそう考えてしまった。

「大雅に、謝らなきゃって思ってた。『初めから終わってる』なんて僕の勘違いだった」

「何も終わってない?」

「何も終わってない」

 きっとろくに始まってもいない。世界はこうだとか現実はこうだとか決めつけてしまうには、僕はあまりにも世間を知らなすぎる。

「頑張ろうな、大雅。年上の僕がお手本になるからさ」

「お手本?」

「そう、お手本」

 自分もあんなふうでありたい――。いつかそう思ってもらえるような。

 小枝を踏む足音が聞こえた。顔を上げると、バイクは置いてきたらしい、健斗が立っていた。寄り添う僕たちを見ていつもの笑顔を浮かべた。

「一件落着?」

 とりあえず片手を上げて応えた。

 瞬間、大きな問題を思い出して僕の頭はいっぱいになった。

「米本シート!」

「諦めろ。もう無理だ」

「健斗、大雅のこと頼む」

「いいけど、お前どうすんの」

「バスに乗って下宿まで戻る」

「だから、無理だろ時間的に。書いたもん持って真っ直ぐ大学に行くくらいじゃないと」

 確かにその通りだ。方向がまったく違うのだから。こうなったら大学に直行して学務で紙とペンを借りて――。いや待て、そこから感想や意見を書く時間なんてあるだろうか。

 スマホの画面を見ると時刻は午後四時十分になろうというところ。たしか大曲を二十分に出るバスがある。ただし、ここから大学まで確実に三十分はかかる。しかも金曜の夕方だ。渋滞に捕まることはまず避けられない。

 諦めるか? それは嫌だ。ダメだ。お手本になる、なんて大雅に言ったばかりじゃないか。とにかく向かうんだ。大学に。

 後のことを健斗に託してその場を離れようとしたときだった。

「これ」

 大雅が僕に、抱えていたスケッチブックを差し出した。

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