第11話 松田

 管理人室を兼ねた松田さんの住まいは厨房の勝手口を出るとすぐの場所にある。南北に長い松田荘と合わせて、敷地にL字を作っている。

 立派な桜の木がある中庭は、一言で表すなら野原だった。少しも構うことができていないのだろう、雑草が伸び放題で、樹海とまでは言わないけれど見ていて何とも痛ましい。

 こっち、と呼ばれた僕は三和土たたきで靴を脱いだ。

 実家の仏間と同じ臭いがした。染み付いた線香と年寄りの生活臭。お邪魔します、と断って座敷に入る。畳に座布団の組み合わせが新鮮なような懐かしいような。落ち着かない気持ちで待っていると、松田さんが奥の部屋から数冊のアルバムを抱えてきた。

「昔は店子たなこ同士の繋がりがけっこうあったもんだから。そこの庭で餅つきしたり焼き芋したり、行事をね、あれこれ一緒に楽しんだの。で、その都度、写真を撮ってたわけ」

「これ、松田さんですか?」

「お花見の写真ね。若い! さすが二十代」

 セピア色の写真の中、割烹着姿の松田さんは店子たち数人とあの桜の下に立っていた。健斗の予想は間違いなく当たっていると思う。かなりモテたことだろう、松田さんを取り囲んだ男たちは誰も彼もにこにこしている。

 その一枚に限らず、写真はどれも僕を引きつけて放さなかった。構図がどうの被写体がどうのと、色々と文句の付けようはある。白飛びや黒潰れ、フレアにゴースト、手ブレの目立つものは多いしピンぼけもザラだ。

 けれど、ページをめくりながら、僕はそういった技術的なことや巧拙なんかろくに考えていなかった。黄金分割を思わせる、不思議で幸福な収まりの良さにただただ言葉をなくしていた。

 これは誰それの誕生日――。これは何年の大晦日――。骨張った指でいちいち差し示して、見るからにはしゃいでいた松田さんの声が、次第に途切れがちになっていった。

「十七冊目の途中くらいまでかなぁ。あの人が撮った写真は」

「その、旦那さんは……」

 なぜ亡くなったんですか? 亡くなってどれくらい経ちますか? そう最後まで聞くことができなかった尻すぼみな僕に、肝臓癌、と松田さんは苦笑いで教えてくれた。

「一回りも上の人だったから、残される覚悟はあったんだけどね。やっぱり辛かった」

 当時の店子たちの励ましがなかったらとても立ち直れなかった。松田さんはしみじみとそう続けた。

 一人になった松田さんは自分でシャッターを切るようになった。すぐに慣れたというけれど、僕にはそれが一人暮らしのことなのかカメラのことなのか判断が付かなかった。

 松田さんはゆっくりと、小さく、頷くともなく頷いている。

「どの写真も懐かしい。それに、何だか不思議な感じ。この下宿を出て会社を興した人も、大学の先生になった人も、遠い国に渡って成功した人もいるなんて」

「偉い人ばっかりですね」

「服役中の人も行方不明になった人も、亡くなった人もいるみたいだけれどね。そういう、哀しい話を聞くたびに思うの。私に、もっともっと、もっと美味しいご飯が作れていたら、何かが少し違ってたんじゃないかって」

 何とも応えようがなかった。ただ、少なくとも僕は、松田さんがお手伝いのおばさんと一緒に作ってくれる毎日の食事は、抜群に、お世辞抜きで美味しいと思う。

 でも本当、と松田さんが声の調子を明るく変えた。

「最近はなかなかねえ、皆で写真を撮ることもそうそうなくなって。つまんないわ。時代は変わったって思う」

「基本、あんま交流ないですからね」

「他の部屋の子たちと? 進んで話しかければいいのに」

「キャラじゃないんで」

 とりとめもない話を続けていると、ふいに、松田さんが意味深な笑みを浮かべた。

「……なるほどね。よく分かった。内海さんとは、こうして写真を通してなら、あれこれ話せるわけね」

 そうかもしれなかった。僕はアルバムから目を離さずに応える。

「無口なんで。健斗と違って」

「そうね。健斗くんは放っておいても喋ってくれる。話もいちいち面白い」

「ですね。気遣いもできる。僕とは違う」

「内海さんが気遣いできない子だとは思わないけど。じゃないと、こんなふうにお婆さんの昔話に付き合ってくれたりしないでしょう」

「写真、好きなんです」

「私も」

 顔を上げた。松田さんはおっとり微笑んでいた。

「内海さん、何でも、困ったことがあったら遠慮なく言ってちょうだいね。あと、誕生日とか、進級したときとか、そういう大切な日もちゃんと教えて。これからの内海さんを、どんどん写真に残していきましょう」

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