第9話 健斗
健斗は松田荘に着くなり食堂へ直行した。
松田さんにもツーリング土産を買ってきていたからだ。
ノートパソコンを開いて『廃墟』フォルダ内の写真の整理をしていると、健斗がにこにこしながら部屋にやってきた。気分良さげに弾むような胡坐をかいた。
「若い頃はかなりモテたんだろうなぁ、環ちゃん」
「どうして」
「いや、今でもあんだけ綺麗だから。めちゃくちゃ喜んでくれた。阿部さんは『お、悪いね』ってニコリともしなかったけど。お前、何か面倒起こしたって? 大雅のことで」
「阿部さん、そんな言い方してたのか」
「してたら何だよ」
「大雅とは、別に、特に何もない」
「画風を変えるくらい影響与えたんだろ」
そうだろうか? 大雅の何かが変わったようには感じなかったけれど。僕が応えずにいると健斗も黙り込んだ。
写真の整理を続ける僕の手元。片寄せた筆記用具。白いままのコメントシート。飾られた写真たち。健斗の視線は部屋を一巡りしてまた僕に帰ってきた。
これまであえて踏み込まずにいた場所へ、そうと知りながら踏み込む直前の、張り詰めた気配が部屋に満ちた。僕には健斗が覚悟を決めるのが分かった。
「梅村先輩がさ、『遠くへ行けるのは帰る場所があるからだ』って、よく言うわけよ。何かの受け売りらしいけど」
「ロマンチストだな」
「いや、あの人はリアリスト。ロマンチストは俊介の方だろ」
「何でだよ」
横目できつく睨んでやると健斗はすぐに目を逸らした。
「利香さんが心配してたぞ。愚弟は地に足が着いてないって」
「は? いつ会った」
「今日の帰り。店に寄ってオレンジゼリー渡してきた」
「営業中の美容室に、客でもないのに寄ったのか。よくそんなことできるな」
つくづく健斗は肝が太いと思う。僕にはまずできない。
「でな、利香さんに『ありがとう』って言われて実感した。梅村先輩の言葉は本当だ」
「お前、本当、昔から姉ちゃんのこと好きな」
「愚弟二号としてな」
一人っ子の健斗は小さな頃からうちの姉ちゃんを慕うことしきりだった。それが恋愛関係に発展したのかというと、どうもそうではなかったようなのだけれど。
なあ俊介、と健斗が僕を真っ直ぐ見た。
「俺たちは多分、大雅に利香姉ちゃんはいないってことを、忘れちゃいけない」
「よく分からない。はっきり言えよ」
「これくらい察してくれよ」
「分かるように言えよ。コミュ障でも分かるようにさ」
僕の自嘲に健斗が珍しく気色ばんだ。
「あの子を追い詰めんなってことだよ。逃げ場とか、拠り所とか、戻る場所とか、大雅にはそういうもんが少ないように見える」
「同じ一人っ子だからよく分かる、と」
「周りは見守るだけでいい。大雅のことを決めるのは大雅だ」
「とにかくもう大雅に関わるなと。そう言いたいんだろう? 説得しろって阿部さんに頼まれたわけだ」
「そうじゃない」
「嘘つけ」
共通の知人たちと、健斗はいつだって僕よりもずっと突っ込んだ話をする。あっという間に距離を詰めて親しくなって、僕が相手を名字で呼び捨てにさえしないうちに、下の名前やちゃん付けで呼び合っていたりする。
健斗が何か言おうとするのを片手で遮った。
「もういい分かった。大雅にあれこれ言わない。干渉しない。それでいいんだろう」
「だな。そうしろよ。その方がいい」
健斗が聞こえよがしな溜息をついた。
「今の俊介は、大雅を傷つけかねない」
立ち上がると、じゃあな、とも言わずに部屋を出て行った。
僕はお土産のゼリーの詰め合わせを睨んだ。
言い合いになるといつもこうだ。健斗の方が先に、重たい物でも飲み込んだみたいに引き下がる。あいつの方が大人だという証拠を見せられるようで気が滅入る。
専用シートを取り出して、『ひとり親家庭への支援施策』について講義を受けた感想をつらつらと書いた。最後に、子供の心のことを取り上げて、周りが何をしてみたところで根本的な問題を解消することはできないと思う、と結んだ。
単親家庭の子供には、遅かれ早かれ、両親健在の環境で育った連中と自分との間に様々な面で違いがあることを思い知らされる日がきっと来る。精神面での不具や欠落といったものを強く意識して、打ちひしがれて、そして自嘲するだろう。誰もが貰えて良いはずのものを貰えなかった結果がこれだよ、と。
首を巡らせて廃墟の写真たちを見回した。またあの廃工場に行きたくなった。醜く崩れた、だらしなく乱れた世界を見ていたい。『皆が等しく大切な存在だ』なんておめでたい共同幻想がいいだけ薄れた場所で、本当は誰もがどうでもいい存在なのだということを確かめたい。
廃墟はきっと、親が子を捨て子が親を見限る世界の象徴だ。どこも一皮剥けばそうなっている。そうでない場合が周囲にたまたま多いというだけの話。それなのに、マジョリティは
書き終わったコメントシートをそこらに放って寝そべった。目を閉じた。『廃墟の四季』が世界の何もかもを塗り替えて、僕に新しい道を開いてくれることを強く祈った。
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