第7話 決裂
水曜日、アルバイトは入れてないのに阿部さんから電話がかかってきた。直に会って確認したいことがあるという。
いつも通り、講義の後に予定はなかった。面倒だけれど仕方がない。僕は大人しく求めに応じることにした。
十九時を過ぎた今も、児童館には延長で居残っている子供たちが何人かいた。鑑賞中らしい、アニメ映画の音声がかえって静けさを強調している。
そこから少し離れたテーブルに大雅もいた。一人で黙々とスケッチブックに向かうその姿は、静かではあっても楽しそうな他の子供たちとの対比で、僕には一種のトンネル構図を成して見えた。
僕の姿に気付いた大雅がさっと立ち上がり、足音を忍ばせて駆け寄ってきた。普段と変わらない無表情だ。ねえ、と上目遣いに囁いた。
「あの写真、もっとよく見たい」
「お、描いてるのか? 送ってやろうか」
大雅は母親からスマホを持たされている。僕たちはその場で画像データを共有した。自分が撮った写真に、こうして誰かが強い興味を示してくれることが素直に嬉しかった。
「こういう廃墟、大雅はどう思う? 汚くて嫌い?」
「……汚いけど格好良い。頑張って、たくさん働いた証拠だと思う」
思いがけない返事に、正直ちょっと驚きもした。同じ物を見ているはずなのに評価する点がまったく違う。こんなに汚いのはそれだけ長く放っておかれたからだよ、とは言わないでおいた。
「ここって本当の本当に日本?」
大雅が画面を見たまま呟く。僕は得意になって頷いた。
「バスで『大曲』まで行けばすぐだよ」
「働いてた人たちはどこ行ったんだろう」
「さあ? 他所の工場にでも移ったのかな」
『富士工場鳴川』の閉鎖は工業用水の値段の高騰に主な原因があったらしい。健斗から聞いた話だ。製紙業にとって水は重要な資源の一つだという。
「終わってないよね? ぼくたち」
「ん?」
「『禍福はあざなえる縄の如し』でしょう? だったら何も終わってないよね?」
得意のことわざ。大雅は昨日の話の続きがしたいらしい。
無邪気さが眩しく感じられた。
この子はまだ現実のままならなさを知らない。
志望校に落ちたこともなければ幼馴染との能力差を痛感して落ち込んだこともない。『片親だから』と不出来のレッテルを貼られたこともなければピーターパン症候群の
僕はスマホの画面を指差した。
「こんなに大きな工場でも、何かの拍子に誰かの都合でポイと捨てられる。あとは忘れられて、立ち腐れていくばかり。そういうのって『意味のあるものなんか何もない』っていうサインだと思わないか?」
大雅が首を傾げた。良く飲み込めなかったのかもしれないけれど僕は構わず続ける。
「モノもヒトも、実は全部そうなんだよ。あってもなくても同じ。いてもいなくても同じ。何もかも、いつかは忘れられておしまい。『初めから終わってる』ってそういうことさ。だからこそ、何であれその程度なんだと割り切って、気負わずに、肩の力を抜いていこうって僕は言いたいわけ。一つの考え方。スタンスの問題」
「でも」
「おまけに僕たちは出だしから躓いた。そうだろう? 周りをよく見て上手にバランスを取って、使える物は何でも使っていかないと、両親揃ったマトモな奴らには勝てない。スタートラインからして違うんだから」
大雅の表情がまた翳った。なぜか僕は自分の中の加虐心が次第に大きくなるのを感じた。喉の下に暗い興奮が満ちていく。
「そこで、だ。例えば僕らは父親を『反面教師』として利用できる。あんな大人には絶対にならないぞ。家族を捨てたりしないぞ。そう考えて自分を奮い立たせるんだ。せめてそれくらいの役には立ってもらわないと。分かるかな『反面教師』」
「分かるけど、ぼくは」
「そういうふうに、自分が逆境にあることをさえ利用してやるくらいのしたたかさが必要なんだ。親に対する恨みつらみ、マイナスの感情だって、自分を前向きにするための原動力に変えることができれば」
「ぼくはパパを恨んでない」
大雅は僕に背中を向けた。
「終わってなんかない」
肩越しに呟いて、部屋から出て行ってしまった。
反発されても仕方がないか、と僕は溜息をつく。
小学二年生の心にはすんなりと染み入らない話だったことだろう。
大雅と僕がこんなやり取りをしたなんて知ったら、きっと阿部さんは良い顔をしない。それどころか不用意に触れるなと言ったはずだとか何とか、ひどく怒るかもしれない。
けれど、強くて前向きな子に育って欲しいと思うのなら、厳しい現実に対する抗体を今のうちから付けておいてあげることは間違いじゃないと僕は思う。
理由はどうあれ片方の親から見放されたという確かな事実は、遅効性の毒物よろしく、成長するにつれてじわじわと大雅を蝕んでいくに違いないのだから。
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