第5話 悪夢
何かに追われながら薄暗い廃工場の中を走り続ける夢を見た。
ボウフラの湧く水溜り。顔を襲う蜘蛛の巣。所構わず這い回る蔦。辺りは錆びたパイプとタンクでできた汚い迷路だ。
背中に視線を感じる。ひたひたと足音が迫ってくる。怖くて堪らないのに声が出ない。助けを呼ぼうにも呼び方が分からない。
コールタールめいた粘性の高い空気を掻いて掻いて掻きまくる。時折、手にしたカメラを後ろに向けてシャッターを切る。迫り来る何者かを撮ることで退けようとする。
ファインダーは覗けない。体勢に無理があるから。いや、相手がこちらを向いているから。あれがよくないモノだということを僕は知っている。見てはいけない。絶対に。間違っても目を合わせてはいけない。
初めて気が付く浮遊感。逃げながら、いつの間にか真っ逆さまに落ちている。廃工場の迷路そのものを包んでぽっかりと口を開けた途方もなく巨大な底無しの暗闇に。僕も追跡者も工場も本当はもうずっと落ち続けていた。最初から終わっていた。そのことを知って唐突に虚しくなる。やがて広大な暗闇全体が鈍く振動を始める。
枕元のスマホが健斗からの着信を告げていた。
「米本シート書いたか?」
部屋に来るなりそう尋ねるので、幼馴染の面倒見の良さに呆れてしまった。
当の健斗はそんな顔をされるのは心外と言わんばかりだ。
「迷惑そうにすんなよ。書き上がってたら出しといてやろうと思ったんだよ。これから遠征で、大学は通り道だから」
サークルの仲間と伊豆半島を巡ると言っていたのは、そういえば今日だったっけ。
まだだと答えると、健斗は僕のバッグから勝手に専用シートと筆記用具を取り出した。ローテーブルに広げた。ベッドに腰掛けたままぼんやりしている寝起きの僕を焦れったそうに急かしてくる。
「先延ばしにしないでさっさと書けって。な? 感想の一つや二つあるだろ?」
「金曜日の夕方五時までには書く」
「リミットギリギリはダメだ。危ない。
どこの学部にもエピソードに事欠かない名物教授はいるようで、教育では『教育制度論』の米本教授がそれにあたる。
万事においてマイペース。感情の起伏が極端に少なくて、滅多に笑わないし怒らない。そして時間にとても厳しい。
毎回の講義の後、教授は学生に出席表を兼ねた手書きのコメントシート、通称『
「梅村先輩から聞いた昔話だけどな」
健斗は怪談でも語るようにジャケットの背中を丸めた。
「ある一年生が、金曜の夕方、レポート提出期限ギリギリに学部棟に駆け込んだ。ちょうど米本教授の姿が、学務の前の、あの教員用のボックスが並んだ辺りに見えた」
僕は想像する。夕暮れの学舎。廊下に伸びた米本教授の影。教授は中肉中背の、撫で付けた髪に白いものが混じる、本当にどこにでもいそうな普通のおっさんだ。
息を切らして駆け寄る一年生。こちらを向く教授。その手には閉めたばかりのポストの鍵と専用シートの不揃いな束。
「ぜえはあ言いながら、一年生は深く深く頭を下げて、両手でシートを差し出した。『遅くなって申し訳ありません!』」
「だっさ」
「けど教授はそのシートを完璧に、完全に、無視して行っちまった。愕然とした一年生が腕時計を見ると、時刻は午後五時〇一分」
一分くらい大目に見てやれよ! と不満を漏らしたのは同じ一年生たちだけだったという。他学年の学生たちは静かに頷くばかり。米本教授が時間にシビアなことを彼らはよく知っていたからだ。
「例のジンクス通り、その一年生は留年したらしい。……俊介は? まともに進級したいだろ?」
頷いた。当然だ。滑り止めの大学で留年なんて御免だ。
「だったら書けよ。いいな?」
腰を上げた健斗を呼び止める。
「お前は感想何て書いた?」
「俺? 俺はほら、あれだ、支援組織の拡充と合わせて、民間への充分なアナウンスも必要だと思うとか何とか。テキトーテキトー」
じゃあな、と部屋を出て行った。
先週の米本教授の講義は『ひとり親家庭への支援施策』に関するものだった。特に時間を割いたのは子供の学習支援のこと。教育機関と厚生労働省の連携のあり方や、事業の具体例に関する説明に終始した。
正直言ってまったく筆が進まない。適当なことを書くくらいなら出さない方がマシかもしれないとさえ思う。そんなことを考えてしまう程度には、僕にとってセンシティブなテーマだった。健斗のせっつき方に今ひとつ勢いがないのも、あいつなりに僕の心境を気にしてくれているからなのかもしれない。
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