第4話 廃墟
七時の閉所でアルバイトを終えた後、健斗が僕に例の廃工場を見せてやると言い出した。本当にいいのか、と僕はヘルメットを受け取りながら尋ねた。
「まだ
「オーケーオーケー。いいよもう。あれだほら、嫌なことや哀しいことの次は、嬉しいことや楽しいことがないとな」
あの光景を目の当たりにできるのであれば同情でも何でも大歓迎だった。
ホンダのCB250Fにタンデムで、四七三号線を北上すること数十分。そこから県道へ折れてさらに数分。健斗は大きく弧を描いたガードレールにギリギリまで寄せてバイクを止めた。
「どうだこの眺め。見ようによっちゃかなりファンタジーだろ」
僕はほとんど忘我のままシートを降りた。
暮れなずむ空の下、廃工場は薄闇をたたえた木々の間から骨張った威容を覗かせていた。確かに、と思う。飛び回る
デジイチを構えてさっそく一枚撮った。久々に興奮してきた。
「どこから降りればいいんだろう」
「は? ここまででいいだろ、ここまでで」
日を改めようと訴える健斗には構わずガードレールに沿って歩き出す。道の反対側にバス停を見つけた。『
「健斗、頼む」
僕が手を合わせると、健斗は不承不承だけれどエンジンをかけてくれた。
長年放置された結果だろう、道は落ち葉や朽ちた枝で荒れ放題。
密に茂った杉林と坂道が作る鋭い三角構図の中をひたすら上へ。枝を交わした木立の向こうに目指す廃工場が見えてきた頃には、僕たちはすっかり息を切らしていた。
施設の周囲は高いフェンスで囲われていた。通ってきたのは工場の裏手へ続くルートだったらしい。正門は反対側だ。それもそうか、と納得した。あんなに細くて急な坂道では製品や資材の搬出入のために大きなトラックが出入りすることはできない。
鋼鉄の塊がすぐそこに、数え切れないほど沢山あった。縦横に走る無数のパイプ。連絡された大小様々なタンク。間近に迫るそれらの様子が目にうるさい。代わりに何の物音もしない。金臭い暗闇がそこここにわだかまっていて、誰かに影を踏まれているような、静かで独特な忌まわしさを覚える。
健斗が身震いをした。
「今にも何か出そうだな」
「どうしてこのまま放置されてるんだろう」
「うお、ここ圏外だ。今気付いた。ありえねえ」
「コンテスト、この工場の写真を出せばよかった」
投稿した『廃墟の四季』でも上位入賞の自信は充分にあるけれど、こちらでチャレンジできていたらグランプリは硬かっただろう。
フェンス沿いに歩いては立ち止まり、その都度写真を撮る。軽犯罪法に触れるので勝手に立ち入ることはできない。
そんなに廃墟が好きなのか? 撮りながら僕は自問する。いや、きっと本当は嫌いなんだ。嫌いだからこそ逆に惹かれている。怖い物見たさによく似た気持ち。
むしろ、撮るという行為は、僕の場合、遠ざけておきたい心理の表れなのかもしれない。この残念極まりない風景の中に自分がいないことを確かめたい。そんな倒錯した思い。
ぶっ違いの鉄骨を、腐食した外壁を、下草に覆われた敷地を僕は撮り続けた。何か重たい物でもって殴りつけるような気持ちで。感情のまま蹴りつけるような気分で。
そのうちに、朽ち果てた工場が崩壊を始めた。昂ぶった神経が見せる幻だ。タンクというタンクが傾く。錆びたパイプが後から後から落ちてくる。衝撃に耐えきれず地面が割れる。砕けてこの世の底が抜ける。抜けた部分から世界がもろもろと崩れていく。どこかで誰かが志望校に落ちる。どこかの誰かに扶養確認書が届く。どこかの誰かが離婚して、どこかでまた一つの家族が終わる。フラッシュも届かないほど大きな、底無しの暗闇がぽっかりと口を開けている。あらゆるものがそこに飲み込まれていく。
俊介! と鋭く呼ばれて我に返った。
「何度も呼ばせんなよ。そろそろ帰ろうぜ」
健斗の表情がいやに険しい。
いつの間にか辺りはすっかり暗かった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます