第3話 学童

 事の顛末てんまつを聞き終えた健斗が大袈裟に寒がる真似をした。

「すっげえ。相変わらず厳しいな内海先生」

「ドライすぎるんだよ」

 そこが長所であり短所でもあるのだろう。今も昔も母さんの授業についていけない生徒は多いと聞く。

「そのあと利香さんは?」

「黙って飯食って、部屋行ってそのまま」

 今朝も会わなかった。実家を出た僕は電車に乗って、下宿があるここ鳴川まで戻って来た。あまりの気怠さに三限目まで休んだ。

 今日は月曜日。仕事が休みの姉ちゃんはどんな気分でいるだろう。何の連絡もないけれど、相談の電話なりメールなりがもしも来たら、僕は何と答えるべきなのだろう。

 午後三時、僕と健斗は市内にある児童館にいた。揃って学童クラブ指導員のアルバイトをしている。写真もバイクも続けるにはそれなりにお金がかかる。

 開所前の、児童不在の館内は虚しい抜け殻だ。『木の温もり』が売りの明るい遊戯室も今はただ閑散として物悲しい。

「俊介は割と平気そうだけど」

 健斗が青いロディの鼻先を撫でた。

「実際どんな気分なんだよ。実の親父さんに当たる人が、生活保護の申請だっけ? 出したこと知って」

「哀れだなぁって思う」

 姉ちゃんは父親をひどく嫌っている。少しの間とはいえ一緒に暮らした記憶があるからだろう。裏切られた、と強く感じるのに違いない。

 でも僕の場合嫌っているのとは少し違う。胸にあるのはぼんやりした落胆だ。そこはかとない失望感だ。それも父親に対するというよりはむしろ、親が子供を捨てるといったことが平気で起こるこの世界そのものへの。

 会ったことはないけれど、僕は父親らしき人物を遠目に見たことなら一度だけある。小学校二年生のときだった。その人は、今思えばあれは金の無心だったのかもしれない、家の外に呼び出した母さんに向かってしきりと頭を下げていた。

 姉ちゃんが泣きながら僕を抱きしめた。見ちゃダメ! と悔しそうだった。けれど肩越しにどうしても目に入ってきた。卑屈そうな痩せた顔。派手な色柄のパーカー。だぶだぶのズボンにサンダルの、何とも言えず冴えない格好。

 ああなるほど、と僕は幼心に感じてしまった。家族を守れなかったわけだ、と。それくらい、父親と思しいその人物はちゃんとした大人の男に見えなかった。

 哀れだ。つくづく哀れだ。本人は知っているのだろうか。捨てた子供の元に自分の扶養確認書が届いたことを。

「俺にできることがあったら何でも言ってくださいって利香さんに伝えといて」

 真顔で言う健斗に僕は笑ってみせた。

「姉ちゃんにだけ? その弟には」

「利香さんのダメージの方がデケえだろ」

 ミーティング始まるよ、と職員さんの一人から呼びかけられた。僕たちは慌てて事務室に駆け込んだ。

 室内にはとっくに職員全員が集まっていた。施設長の阿部あべさんの他に『放課後児童支援員』の有資格者が三名。どの人もうちの母さんと同じか一回りは上に見えるおばさんだ。

 児童の出欠席や提供するおやつの内容等々、共有しておくべき情報は多い。学年バラバラで性格も十人十色な子供たちが帰宅までの一時を安心して過ごせるよう、放課後児童クラブには適切なサービスを提供する義務がある。

 阿部さんが指まで太い手を億劫そうに持ち上げてうなじの辺りを掻いた。仏頂面が常態の彼女だけれど、今日はいつにも増して不機嫌そうだ。

「市の民生委員から家庭状況の変更の連絡。春日井、じゃなかった、工藤さんの離婚が正式に決まったそうです」

 僕たちがバイトに入る前から調停が続いていたという、ある家族のことだった。夫婦は別居中で、一人息子は母親と一緒に暮らしている。

 職員さんたちが揃って漏らした溜息には同情や非難が複雑に入り混じっていた。阿部さんも憂鬱そうな様子を隠さない。

「当然、あえてそのことに触れる必要はないですけど、大雅たいがには、今のことをしっかり頭に置いて接するようにしてください」

 哀れな家庭がまた一つ、と僕は心の中で呟いた。離婚なんて日常茶飯事だけれど。本当、うんざりするくらいありふれた出来事だけれど。

 その日、僕と健斗はいつも通り、子供たちの宿題を見てあげたり一緒におやつを食べたり、遊びに付き合ったりして時間を過ごした。春日井改め工藤大雅は欠席だった。

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