第2話 実家

 線香臭い仏間を出て居間へ戻る途中、すさんだ裏庭の様子が目についた。五年前に爺ちゃんと婆ちゃんが死んでからこちら、たまの草取り以外ろくな手入れをしていない。

 日暮れ前から降り出した雨のせいだろう、裏の竹林は普段よりもずっと重そうに項垂れていた。木賊垣とくさがきの向こうは内海家わがや所有の山で、今の時季だとタケノコが採れる。

 居間では姉ちゃんが座卓に肘をついて普段は観ないローカル番組を観ていた。あのテンション低めのメールといい虚ろな半眼といい、あまりにもらしくない有様だ。去年から勤めている美容室は、今日は休みだったのだろうか。

「姉ちゃん、話って何」

「お母さんが帰ってきてから話すってさっきも言った」

 半開きの口の端から垂れ流すような返事。シュシュを取って乱れ放題の長い髪も、オーバーサイズのシャツも、『心ここにあらず』を強調して見える。大災害の前兆現象でも目の当たりにする思いだった。理由も聞かされないまま帰省を強いられたことへの不満はまだ表に出さない方が賢明だ、と僕の長い弟経験が告げている。

しゅん、あんたお父さんのこと覚えてる?」

 思いもよらない質問が飛んできた。

 キッチンで冷蔵庫を開けようとしていた僕はドアに手をかけたまま固まった。

『看過できない金銭感覚の相違』を理由に両親が離婚したのは、僕が生まれてすぐのことだったという。覚えている限り、父親の方から面会を求められたことはない。こちらから会いたいとせがんだこともない。

「何で? いきなり」

 返事はなかった。それからたっぷり三十分以上、姉ちゃんは黙り込んで動かなかった。玄関が開いて母さんの『ただいま』が聞こえたときにはさすがにホッとした。

「ちょっと。部屋の電気くらいつけなさい」

 言われるまま僕がカーテンを閉めたり風呂掃除をしたりしている間に、母さんはいつものゆったりした部屋着に着替えてきた。

 心なしか母さんは一回り小さくなって見えた。ついこの間、大型連休中に帰省したときよりもさらに。日曜日にもかかわらず学校で仕事。高校生相手に数学を教えるのは、僕が想像するよりもずっと大変なことなのに違いない。

「出来合いでいいよね。帰るっていう利香りかからの連絡、あんまり急だったし」

 昔からどれだけ世話になってきたか知れない、近くの総菜屋の代わり映えしない揚物や煮物が食卓に並んだ。とりあえず食べようか、というタイミングで姉ちゃんがテレビを消した。三つ折りにされたA四サイズの紙を広げて天板の空いたスペースに叩き付けた。

「これ私のアパートに届いたんだけど」

 覗き込んだ母さんが眉をきつく寄せた。あの甲斐性なし、と舌打ち混じりに呟いて天井を仰いだ。

 僕はプリントを手に取った。

『扶養義務の履行に関する確認書』

 差出元は愛知県某市の福祉事務所。

 姉ちゃんが横目でこっちを見た。

「私たちの父親にあたる人から、自治体に生活保護の申請があったんだって。保護費支給の前に、私からはどれくらい援助できるか知りたいって」

『扶養義務者である貴女にはどの程度の援助が可能かを確認するための書類です』と書いてあった。

「扶養義務者。馬鹿みたい。家族を捨てた男に私から手を差し伸べてやれって?」

 姉ちゃんは蒼白だ。かなり怒っている。

 僕は状況そのものにドン引きだった。こんなことがありえるなんて。こんな、一般家庭の古傷が役所に抉られるような出来事が。

「ごめんね、利香」

 母さんが頭を下げた。ただそれは、事務的な印象を受ける乾いた謝り方だった。

「いつかこういうことが起こるかもしれないって、実は母さん思ってた。今の高校の、一緒に勤めてる先生方の一人に、これと似た書類を受け取った人がいたから」

 母さんは相変わらず冷静だ。息子だというのに、僕はこの人が声を荒げたところを見たことがない。長い説教をされたことはあっても手を上げられたことは一度もない。

「結論から言うとね、利香が援助をする必要はないの。『扶養する意思はありません』って一筆書いて送り返せば済む話」

 ゆっくりしおれていく姉ちゃんの隣で、僕はスマホのブラウザアプリを立ち上げる。『離婚』『親』『扶養』といったキーワードで検索すると、いわゆる質問サイトに同じような事例がいくつも見つかった。

 質問者に対する回答はどれも似たり寄ったりだ。扶養を強要するものではありません。突っぱねても罰則はありません。役所に他意はないのです、なんてコメントもあった。家庭の事情はさておき、法律上確認する必要があるから書類を送付したまでのこと。感情的になるには及びません。

「ただね利香、短気を起こさないで、きちんと自分で考えて結論を出してみて」

 言われた姉ちゃんがキョトンとした。知らない数式でも出てきたみたいに。母さんは自分のペースで淡々と続ける。

「私にとってあの人はもう他人だけれど、利香にとっては間違いなく父親。だから、貴女がこの件についてどんな対応をすることにしても、私は何も言わない」

「……援助はしないって、私、二人の前ではっきり言おうと思って、それで来たんだけど」

「それは真剣に考えた結果? 利香にはこう、直情的で短絡な所があるから」

「考えたに決まってるじゃん」

 姉ちゃんの声には隠すに隠せない動揺があった。すぐには賛同してもらえなかったことに困惑しているようだ。

「利香が後悔しないならそれでいいけれど。俊介、貴方もちゃんと相談に乗ってあげなさいね」

 母さんの冷めた声に僕はスマホを置いた。

「いつか大学卒業して働き始めたら、貴方にも同じ書類が届いたりするかもしれないんだから。そのときはちゃんと自分で納得のいく選択をするのよ」

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