ネガ・ポジ

夕辺歩

第1話 親友

 そうだ、この小汚い下宿も撮っておこう。

 情けなくて耐え難い今もいつかはただの思い出になる。

 よくこんな所で我慢できたな、なんて笑って振り返る日がきっと来る。

 コンビニの袋を足元に置いてアスファルトに片膝をついた。愛機はNikonのD5300。レンズを支えて脇を締めた。

 被写体、構図、シチュエーション――。何をどう撮るかに撮影者が表れる。僕が二分割法で切り取った松田荘の写真を見て、人は言うに違いない。五月の空に潰されそうな木造の平屋がいかにも哀れっぽいと。第一志望に落ちて滑り止めで妥協した十八歳のやるせない心が滲み出ていると。

 また無性にイライラしてきた。

 シャッターを切った瞬間、僕は画面の中の四角い世界が崩壊するさまを思い描いた。隣の家の瓦屋根もろとも崩れゆく築四十五年の歴史。

 ああ、と思わず溜息が漏れる。くだらない今を、こうして撮ることで本当にぶち壊せたらきっとせいせいするだろうに。

 苔生こけむした門柱はまるで石碑か墓石。並んだ大小様々な植木鉢は明らかに置きっ放しで、溢れた緑が石畳のアプローチをみっともなく侵している。大家のお婆さんとお手伝いのおばさんの二人だけでは、外の掃除や庭のことにまで手が回らないらしい。

 ガラガラとやかましい引き戸を開けた。見たことのある黒いブーツが三和土たたきに脱ぎ捨ててあると思ったら、長く伸びた廊下の向こう、食堂の方から聞き慣れた笑い声が響いてきた。

「へえ、あの教授もここ出身! たまきちゃんの手料理食べて偉くなったんだ。すっげえ。マジすげえ。歴史って感じ」

「私の料理は関係ないでしょうよ。本人の努力の結果。若い時分から律儀な人でね、今も毎年、年賀状やら暑中見舞いやら」

「届くんだ。いやそれマジですげえなあ、三十何年も良い関係が続いてるって」

 玉暖簾たまのれんをじゃらり。室内を覗くと、すげえなあ、の顔のまま黒いライディングジャケットが振り返った。太い眉毛がひょいと跳ねた。

「おう俊介しゅんすけ。座れよ。聞けって環ちゃんの話。お前の下宿すげえから」

 来るのはまだ二度目のはずなのに、手招きする健斗けんとは僕よりもよほど店子たなこらしく見えた。大家の松田さんと差し向かいで、六人掛けのテーブルにはお茶とお菓子まで出してもらっている。

 目が合うと、松田さんは目尻の皺を深めて微笑んだ。やたら細かい花柄のシャツをゆったりと纏った品の良いお婆さんだ。

「内海さんもお茶、一緒に飲みましょう」

 差し伸べられた細い手に老班を見つけた。

最中もなかもありますよ」

「いえ、いらないです」

「即答! ごめんね環ちゃん、無愛想な白茄子野郎で」

 健斗のフォローと松田さんの苦笑いを背に、僕はさっさと自分の部屋へ向かった。

 後から入ってきた健斗が、後ろ手にドアを閉めるなりオイこの野郎と声を低くした。

「今のはねえだろ。誘ってもらっといて」

「昼飯の直前にお茶と最中の方がないだろ。お前いつものバイクは? どこ止めた?」

「遠征前のメンテ中。断るにしたって言葉があるだろうっつってんの俺は。コミュ障が。そんなスタンスだから楽しい話も使える情報も入って来ねえんだよ」

 僕とは好対照な浅黒い顔を歪めて、健斗は呆れと哀れみと諦めを全部一度に表してみせた。もちろん無視してやった。電子レンジにパスタを放り込み、ローテーブルに肘をついておにぎりを頬張る。

 救いようがない、とばかりに健斗は首を振った。ラグが痛みそうな直下型の胡坐をかいて六畳間を見回す。

「てか写真また増えたんじゃねえ?」

「見れば分かるだろ」

「誰のケツに乗ったんだよ。連れてってねえぞ俺」

「ネットで探して一人で行ったさ」

「だよな。知ってた。なあボッチ、モノクロはもう止せって。ただでさえ被写体がアレなんだから」

「うるさい」

 狭い部屋をお洒落に見せる努力ではないけれど、僕は天井と床にメッシュパネルを突っ張らせて撮った写真を飾っている。

 出入り口と押し入れと窓がある部分を除けば、壁のほとんどは黒くて単調な井桁格子いげたごうし。写真は、たっぷり余白を取って額に入れてみたり、渡した紐にピンチで吊ってみたり、ファブリックパネルに仕立ててみたりと展示方法にあれこれ工夫を凝らしている。

 撮るのは廃墟や廃屋ばかり。モノクロが多め。人物のポートレートも犬も猫も撮らない。ちっともそそられないからだ。

 電子レンジが短いメロディを響かせた。ペペロンチーノの包装を破きながら健斗の横顔を窺う。

「ここ出身の教授って?」

「何だよ盗み聞きかよ。教えてやらねえ。『情報を制する者が大学を制す』ってな」

鼻で笑ってやった。

「制してどうなる。あんな大学」

「出た。そりゃお前には滑り止めだったかもしれねえけどさ。言うか? 人の第一志望校を『あんな大学』とか。もう絶対教えねえ。例の画像も見せてやらねえ。……ってオイ!」

 ロックを解除した瞬間を狙って健斗のスマホを取り上げてやった。写真のアプリをタップ。出てきた画像に思わず目を見張った。

「何だこれ。城? ヨーロッパ?」

 お返しとばかりにパスタを奪われたけれど構わなかった。茜色の空をバックに佇む、森の中の城塞めいた神秘的なシルエットから目が離せない。

 健斗はフォークを手にドヤ顔だ。

「マジですげえだろ。梅村先輩から教えてもらった東部のマル秘スポット。何十年も前に放棄されたっていう製紙工場」

 日本! それも静岡県内!

 新入生オリエンテーションのとき、僕と健斗の面倒を看てくれたのが三年の梅村先輩だった。小柄で柔和で説教好きな人だったことを覚えている。

 梅村先輩と意気投合した健斗は、先輩が所属するバイクサークルにも速攻で入った。着ているジャケットには『SRC』とオリジナルのロゴがプリントされている。

 二人から熱心に誘われたけれど僕は参加しなかった。自分では彼らのテンションにとてもついていけないと強く感じたからだ。

 でも今は勧誘を断ったことが少々ならず悔やまれた。まさかこんな雰囲気たっぷりのロケーションを紹介してもらえるなんて。

「教えてほしいだろ、詳しい場所」

 健斗のニヤケ面は交換条件を突きつけようとしているときのものだった。受け身な僕をからかうように、昔からこいつは何かというとくだらない交渉を持ちかけてくる。

「俊介お前、米本こめんとシートもう書いた?」

「まさか。次の金曜だろ? 提出期限」

「俺はもう書いて出した。ささっと終わらせろよ。そしたら連れて行ってやる」

「保護者か」

「意欲のない幼馴染を心配してやってんの俺は。梅村先輩が言ってたぜ。『米本シートを提出しなかった奴がみんな留年するわけじゃないけれど、留年した奴はみんな米本シートを提出してない』って」

 また鼻で笑ってやった。

 アーティスティックな写真を撮るカメラマンになりたい。そのためにまず美大に入りたい、というのが数ヶ月前までの僕の強い望みだった。

 けれど試験に落ちた。見事につまずいた。どうにか引っ掛かったのは、健斗と一緒に受験したここ静岡の大学の、正直たいして興味もない教育学部だった。

 どの講義も面白くない。関心が持てない意欲が湧かない前向きになれない。ないない尽しの僕をどう焚き付けようとしたって無駄だということが、この世話好きにはまだ理解できていないらしい。

「けどマジでさ、現実見ようぜ現実」

 トーンを落とした健斗の一言に、僕は黙ってスマホを突き返した。ペペロンチーノを取り戻して頬張る。

「俊介の写真、雰囲気あると思うよ俺は。マジで。けど例のコンテスト? グランプリ獲ってぇ、そんで道が開けてぇ、なんてサクセスストーリー、まずねえからな?」

「そんなのまだ分からないだろ」

 国内有数のカメラメーカーが主催するフォトコンテストのことだ。僕は地元神奈川と静岡との県境に見つけたトタン屋根の廃屋に通い詰め、四季折々の様子を組写真にして応募した。タイトルは『廃墟の四季』。

 中学生の頃からずっとカメラに打ち込んできた。市のコンテストで金賞を獲ったことだって三度もある。そんな僕が自信満々で送り出した、自分史上最高の作品だった。結果が出ないわけがない。

 上目遣いで睨む僕に、軽い溜息の健斗はそっぽを向いた。居座りかけた嫌な沈黙を低い振動音が遮った。僕のスマホだ。

「げ。姉ちゃんからメール」

「利香さんから?」

 健斗がずずいと身を乗り出してきた。

「何? 何だって?」

「『話アリ。スグ帰レ』」

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