特攻甲子園

関谷光太郎

第1話

 昭和二十年、七月。


 四年におよぶ戦争は苛烈を極め、占領された沖縄からは連日のように本土への空襲が行われていた。日本の真珠湾攻撃から始まった戦争も優位を誇ったのは最初の半年間だけで、その後は大国アメリカの強大な軍事力の前に劣勢の一途をたどっていた。


 それまで徴兵を免除されていた大学生や旧制高校生までもが駆り出され、急ごしらえの兵士が誕生すると、その学徒兵の多くは飛行学生としてパイロットの訓練を受けることになった。


 飛行科予備学生の訓練期間は一年足らず。かつての予科練が二年以上の訓練をしていたことを考えれば、余りにも短い期間であることがわかる。しかも、厳しい訓練を乗り越えた彼らを待っているのは敵との空戦ではなく、その身をもって敵艦に突っ込むという『特攻』なのだ。


 多くの戦死者を生んだ戦争だが、これまでの戦いには生きるという一縷の望みがあった。しかし『特攻』は、その望みさえ断たれた『死』を目的とした戦いだった。


 開戦当初、日本の零戦は向かうところ敵なしの優れた戦闘機だった。敵国アメリカから『ゼロファイター』と呼ばれ、『ゼロとはまともにやりあうな』という命令もあったと聞く。しかし、グラマンF6Fやシコルスキーといった、零戦を上回る性能の戦闘機が現れたことで今やその威光は輝きを失い、加えて度重なる内地への空襲によって工場が壊滅。まともな航空機さえ作れなくなった現在では零戦の改良さえままならないのだ。アメリカの圧倒的な戦力に打ち勝つのは至難の業と思えた。


 その局面を打開するのが十死零生の『特攻』なのだ。 


 穂積康則は操縦桿を握る指に力を込めて、大きく息を吐いた。


 この戦いに、生きるという選択はない。


 機銃掃射の弾幕をかわしながら、爆弾を抱えた零戦が敵艦に突っ込むという作戦は、口で言うほど簡単ではない。艦よりも高い位置ならたやすく撃墜されてしまうし、低すぎては海に突っ込んでしまう。だから、高度はその中間より突入することを求められた。しかし、短期間に養成された俄パイロットにそれが出来る道理がない。上層部の人間はそれを精神で補えという。技術の未熟さをうんぬんするよりも、お国のためにこの命を捧げるという決意が作戦を成功させるのだ、と。


 そして、添え物のように付け加えるのだ。


 最後まで目をつぶらないこと。目をつぶって機首に微妙なずれが生じれば敵艦を捉える手前で海に激突する可能性があり、それでは有益な戦果を得ることができない。日本男児たるもの、死の間際まで敵の姿を視野に納めよ!


 訓練のたびに上官はお題目のようにそう唱え、隊員を鼓舞する決まり文句で締めるのだ。


 我らには神風が吹く!


「神風か……」


 そっと囁いた言葉が、虚しい響きを残して霧散した。


 唸りをあげる零式戦闘機のエンジン。


 その小気味よい振動が操縦室に伝わった。


 風防ガラス越しに、第二〇三特別攻撃隊の指揮を執る横溝少佐の顔が見える。陽光を浴びたその顔は頬がこけ死人のように青白かった。食料が乏しいこの状況で誰もがやせ細っていたが、少佐の不健康な姿はそれだけが理由ではない。部下を死に追いやることへの苦悩と葛藤が彼を日に日にやつれさせたのだ。


 横溝少佐は士官には珍しく、部下に対して垣根をもたない人物だった。飛行兵からの受けもよく、彼を中心にして隊の団結も強い。特に穂積とはお互いに野球をやっていたという共通点から、個人的に話す機会も多かった。


 横溝少佐の口癖は――『死ぬな』だ。


 戦争当初ならば人間味あふれる上官として受け入れられただろう。しかし、アメリカとの国力の差を埋めるために、兵士に限らず一般の国民までがその命を盾とする『玉砕』が叫ばれる状況下で、横溝少佐の考えは非国民以外の何ものでもなかった。東京帝大出身のエリートであり、海軍の幹部候補として栄光の道を約束されていたはずの少佐である。上層部からの風当たりが強くなるのも当然だった。


 当初、隊でも彼の言動に反発の声が上がった。上官といえども、その弱腰の姿勢に対して隊員たちは嫌悪を隠すことはなかった。下がる一方の士気に、歯止めをかける術はないと思われた。


 だが、決定的な瞬間が訪れた。


 ある日、一機のグラマンがこの基地に攻撃をかけて来た。どこかの作戦の帰り道に偶然通りかかってちょっかいを出した。そんな感じの攻撃だったが、貴重な零戦を無駄にされてはと皆が応戦する中、一機の零戦が飛び立ったのだ。


 それは、横溝少佐の乗る零戦だった。


 特攻用に無駄な兵装は外されている。それなのに少佐の乗った零戦は見事な空戦技術によって敵を追い払ったのだ。戻って来た少佐の機体は敵の機銃によって穴だらけだった。少佐自身も肩口に傷を負っていた。


「何という無茶をされるのですか少佐!」


 とがめる飛行長に少佐は、ばつの悪そうな表情を浮かべた。


「すまん。機体を無駄にした。だが、皆をここで死なせるわけにはいかなかった。本当にすまん」


 その言葉に、少佐の悪口をいう者は一人もいなくなった。


 この時生まれた少佐への信頼が、隊に一体感をもたらしたのだ。


 見る目が変わると、その人に対する感じ方も違うものだ。弱腰と映った少佐の言動は、隊員の命に対する心遣いであり、これまでの上級仕官が見せた、命を物のように扱う姿とは対照的な、人間味溢れる人物なのだと理解できた。


 少佐は飛行隊員だけでなく整備士ら裏方の者まで大事にした。その姿に、ついには少佐のためなら死ねると言う者まで現れることになる。


 しかし、その信頼が逆に少佐を苦しめていた。


 その思いを知ったのは、昨夜のことである。


 出撃前夜。穂積は少佐に呼ばれた。


「どうだ穂積、投げてみないか?」


 どこから持ち出したのか、その手にはキャッチャーミットとボールがあった。ミットはいまも大事に手入れされているのだろう、いい艶を放っていた。


 少佐は、子供のような表情浮かべて言った。


「こいつは俺といつも一緒だった。戦場での唯一の慰めだ。野球は、いいよな。敵も味方も堂々と戦い、終わればその健闘を称え合う」


 少佐は手の中の硬球を穂積に見せた。


「貴様とキャッチボールをするならもう今夜しかない。なぁ、やろうぜ穂積!」


「――前にもお話しましたが、私は肩を壊しました。満足に投げられるかどうか」


「心配いらん。軽く投げるだけだ」


「しかし……」


「男ならごちゃごちゃ言うな」


 ぽん。少佐から硬球が投げられた。


 だが、硬球を手に取っても、穂積のためらいは吹っ切れることがない。


「――強情な男だな。だが、それがお前の投手としての資質か。思い込みの強い奴とバッテリーを組むと苦労する。どうせ肩を壊したのも、自分ひとりで責任を背負った結果だろう。俺が投げなければ皆に迷惑がかかるとな」


「そ、それは……」


 少佐は微笑んだ。


「その気持ちはよくわかる。捕手だった俺も、試合では全責任を背負っていたのは同じだからな。バッテリーというのは一心同体。お前の球を受けていた捕手も、きっと辛い思いをしているはずだ」


 穂積は胸を突かれた。自分の肩ばかりに気を取られて、相手の気持ちを考えたことはなかった。


「どうだ? お前にとってこの戦争は野球以上の価値があったか?」


「価値?」


「そうだ。俺には、野球の出来なくなったお前が、腹いせに死に急いでいるように見える。お国のためと言いながら、実は投手としての価値を失った自分に見切りをつけたんじゃないのか?」


 穂積はかっと熱くなった。


「そ、そんなことはありません!」


 その言葉に、少佐の顔に翳りが差した。そして、囁くように言ったのだ。


 ――嘘をつくな。


「えっ……」


「俺はどんな時でも生きろと叫んできた。戦況が悪化して、上層部が死ぬだけを目的とした戦いを強いても、その考えに変わりはなかった。部下の命を無駄にせず、生きるための戦いができる可能性がある限り諦める気はなかったんだ。しかし根性の悪い連中がいたもので、その可能性も与えるものかと、俺に特攻隊の指揮を取らせることを考えた。」


 特攻の目的は――死。


 少佐の思いは完全に絶たれたのだ。


 夜闇の中で、横溝少佐の尋常ではないやつれ顔が際立っていた。野球の話をしていた時とは別人の表情に、穂積は言葉を失った。


「今の上層部は常軌を逸している。そんな連中のために、お前の価値ある命を無駄にしないでくれ!」


 穂積は混乱した。一体、自分にどうしろというのだ。


 その気持ちを察するように、少佐はボールを指差した。


「……楽な姿勢でいい。俺のミットめがけて投げ込んで来い。そして、肩を壊した腹いせではなく、精一杯生きるために……飛んでくれ」


 そう言って横溝少佐は距離を取った。


「さぁ、どんと来い!」


 穂積は躊躇した。しかし、無理やりに白い歯を見せながら「来い!」と叫ぶ姿に心が動く。


 最後の、飛んでくれ――の言葉は少佐自身の矛盾の表れだろうか、力なく掠れていた。


 この人は長い間苦しんでいたのだ。矛盾した命令を下さなければならない立場に、身も心も削るようにして。


 体が動いた。


 柔軟性を失った肩と、思うように上がらない腕を振って穂積は投げた。


 ピリッとした痛みと共に、山なりの軌道を描いてボールは横溝少佐のミットへ納まった。


「ストライク!」


 少佐の笑顔が弾けた。






 六機の零式戦闘機に出撃の命が下る。


 穂積は昨晩の少佐とのやり取りを心にしまい込み、計器盤に目を走らせた。


 全てよし!


 同僚たちが敬礼するのに答えて、穂積も敬礼した。


 横溝少佐が大きく口を動かしている。


 “俺も後に続く”


 少佐は我々を見送った後、自らも特攻するのだ。


 風防ガラスを閉める。操縦室に響くのはエンジン音だけとなった。


 いよいよ死へと赴く。


 少佐の気持ちは受け取ったつもりだった。だが、違和感は拭い去れない。


 ――生きるために飛ぶ。


 特攻にそんなことが許されるはずがない。


 スロットルは全開。零式の機体がゆっくりと動き出す。


 エンジンの調子は良好だ。機体はすぐにスピードに乗る。


「行くぞ!」


 海原の向こうに輝く太陽を目指して、穂積は飛び立った。


 青い空に白い雲。風防ガラスに反射する陽光がまぶしかった。


 水平飛行に移り他の僚機を確認する。


 全機、無事に飛び立っていた。


 ほっと息をつく瞬間だった。


 計器盤に貼り付けた家族の写真に目をやった。


 両親と妹が自分を中心にして微笑んでいる。入隊が決まった時に家族と撮ったものだ。


 その横に小さな麻袋が掛かっている。中には野球の硬式ボールが入っていた。大学野球の大会で、完封試合を目前に逆転の満塁ホームランを打たれた時のボールである。


 大学二年の夏。


 完封を逃し逆転負けをした試合の後、その肩は完全に壊れていた。


 野球が出来なくなった穂積が入隊を志願したのはそれから間もなくのことだった。


 麻袋にそっと手を触れる。


 昨夜の横溝少佐とのキャッチボールが、長らく忘れていた野球の感覚を思い出させてくれたのだろう。記憶の中にある試合の光景が蘇がえる。湧き上がるスタンドからの歓声は、まるでコックピット内が球場であるかのような錯覚を生んだ。降り注ぐ陽光と芝生の臭い。スタンドにはためく応援旗。


 それは肩を壊した最後の大会だ。


 穂積は肩の痛みをごまかしながら、マウンドに立っていた。


 最後のバッターが打席に入る。ここを抑えれば完封という時を迎えて、穂積の肩は悲鳴をあげていた。もう一球たりとも投げられないと痛みが訴えているのだ。


 気力では補えない現実があった。いっそ控えのピッチャーに交代してもらうことも考えたが、試合には流れがある。交代によってその流れが変わったとしたら、今年卒業をする先輩たちにどう申し訳がたつだろう。しかも戦争の影が色濃くなり始めて、アメリカからやって来た野球は敵性スポーツとして禁止されるという。先輩たちの卒業と同時に、兵役に就くのを待ちかねたように野球はなくなるだろう。


 何としても、ここは踏ん張らねばならない。


 土壇場で穂積はそう決意をしたのだ。


 ドン!


 零式の機体が大きく上下に揺れた。


 穂積は、我に返り周囲を見渡した。


 気流に巻き込まれたか? いや、この天候でそれは考えにくい。


 ドン、ドン、ドン!


 何度か大きく揺れたあと、機体に小刻みな振動が発生した。


 ……エンジンか!


 穂積は燃料計の異常を発見した。計器の針がどんどん下がってゆくのだ。


 真横を飛ぶ僚機も、その異常を察知して身振りで教えてくれていた。


 燃料が、漏れている!


 燃料タンクである両翼から、液体が漏れ出していた。


「ばかな、こんなところで!」


 風防ガラスを拳で叩く。


 その瞬間、耳元で鳴り響くものがあった。


 息を呑んで、穂積は耳をこらした。


 人々の声だ。その中にラッパと太鼓の音が混じっている。


 穂積は頭を振った。


 こんな時に思い出に浸っている場合ではない!


 だがそれは、確かな実感を伴って耳に響いてくるのだ。


 ……錯覚ではない。


「なんだ、これは……」


 津波のように大歓声が穂積を呑み込んでゆく。


 ああああああ! 思わず耳を押さえて叫ぶ。




 突然――――穂積の視界が闇に包まれた。






「おい、柳瀬。どうした?」


 声をかけられて、穂積は夢から覚めたように目をしばたたいた。


 目の前にキャッチャーマスクを頭に載せた男が立っている。日に焼けた顔にきらきらした瞳がこちらを見つめていた。


 穂積はどう答えたものか判断がつかない。目の前の男は見知らぬ者だった。


 誰だ……お前は?


「大丈夫か? 具合でも悪いか……?」


 男は心配しながら親身に声を掛けてくる。


 穂積は頭を振った。状況が呑み込めない。なんとか掌握しようと周囲を見渡すと、スタンドを埋め尽くす観客と応援団が目に飛び込んできた。


「こ、ここは……」


 球場に響き渡るその歓声が嵐のように押し寄せる。


 どこかで見覚えのある球場だった。だが、その印象は大きく違っている。


「……ここは、どこだ?」


「なにを言ってるんだ。当然、甲子園球場だろ」キャッチャーが怪訝な表情でいった。「まさか、暑さにやられたんじゃないだろうな、柳瀬!」


 柳瀬? おれの名前は穂積だ。この男は別人と間違えている。だが、その違いに気づいている様子もなく、完全に柳瀬だと思い込んでいる姿は奇怪だった。


「いや……おれは夢を見ているんだ。こんなこと考えられない」


「馬鹿か。これは現実だ。おれたちは夢の甲子園に立っている。しかも優勝を目前にしているんだぜ」そう言って、キャッチャーが穂積のグローブにボールを押し込んだ。


 硬式のずしりとした重み。


 混乱して鈍る頭にも、優勝の二文字は刺激的だった。自分の立ち位置を見てピッチャーズマウンドが存在しているのを確認した。間違いなく、自分はマウンドにいる。


「だが……なぜ?」


 突然、キャッチャーミットで尻を弾かれた。「しっかりしろ! この期におよんでビビるな。優勝を前にして独り相撲はゆるさんぞ!」


 そして穂積の背中に腕を回して、ぐいっと引き寄せた。


「いいか」キャッチャーが自分の口をミットで覆った。「ここが正念場。次のバッターは四番の柊だ。今大会屈指のスラッガー。厄介な相手だが、ここを打ち取れば優勝だ」


「……優勝」


「お前の体力が限界なのはわかっている。意識が朦朧とするほど辛いんだろう。だが、ここはもうお前しかいないんだ。踏ん張ってくれ」


 野球をしてきたものの習性だろうか。穂積は後ろを振り返り、状況を確認した。累上は全部埋まっている。スコアボードは……3対2。話から察するに3点を取った陽報高校がこちらで、2点の南谷高校が相手側だ。カウントは……「おい、カウントはどこに出ている?」


 聞かれたキャッチャーが困惑ぎみに答える。「ツーアウト。電光掲示板の横に緑と赤で表示されているだろ」


 電光掲示板?


 驚きだった。すべてが人力ではなく電気を利用しているのか。しかも、ストライクとボールの表示が逆になっている。


 その疑問も口にしかけたが、やめた。


 どうやら、ここは自分のいた世界とは違うらしい。


 相当に科学が進んでおり、野球のあり方も大きく変化しているのだ。


 頭がくらくらしたが、差し迫った状況に考えている余裕はないようだった。スタンドからの凄まじい視線が熱気をともなって自分に突き刺さっている。僅差の試合展開で九回裏ツーアウト満塁という緊迫した場面に、球場全体の興奮は頂点に達しているのだ。


 引くに引けない場面に遭遇した自分に、選択の余地はないのだろうか。


「おい。今は……何年だ」


 キャッチャーは気味の悪いものでも見るような目をした。


「何年って……平成二十六年……だろ」


「へいせい? 昭和ではないのか?」


「昭和って、お前……」


「悪いが西暦で言ってくれないか?」


「2014年」


 ――二十一世紀!


 どんな運命のいたずらか、わが身に起こった現実をひとまず受け入れるしか道はなかった。


 ならば、自分の出来ることをやるまでだ。


「……よし。やるぞ」


 穂積の言葉にキャッチャーは白い歯を見せた。「やっと正気にもどったな」


「迷惑をかけた。もう大丈夫。で、おまえの……名前は……」


「倉石だろ。おまえ、本当に……」


 穂積は大きく笑った。「冗談だ、倉石。人が良すぎるぞ!」


「おまえこそ根性が悪い。満塁にした責任はしっかり取れよ。取れなきゃ吉牛をメンバー分おごらせるからな」


「……おお、受けて立とう」


 よしぎゅう……とはなんだ?


 走りさる倉石の背を見つめて穂積は呟いた。いや、すべては後のことだ。今は目の前の勝負に集中するのだ。


 熱気をはらんだ空気を胸一杯に吸い込む。これから一世一代の大博打だ。壊れた肩でどこまで投げられるか。


 左打席に入った選手が目に入る。バランスの取れた筋肉の持ち主だった。その上、背が高い。まるで外国人並みの上背があった。それは彼だけではない。ここに居るすべての選手たちに言えることだった。よほどうまいものを食っているのか、観衆でさえ栄養失調と見える者はいない。


 穂積は感嘆した。食料が配給制になってから栄養状態は悪くなる一方の自分の時代と、ここは別世界なのだと実感する。


 では、自分は……?


 俺は柳瀬と呼ばれていた。それは、ここに立つ自分がこの世界では別人となっていることを示唆している。ならば、この肉体も別人のものである可能性がある。


 穂積はゆっくりと左肩を回した。


 ……あの忌まわしき痛みがない。


 今度は腕ごと大きく振り回した。扇風機のようにぶんぶん音がするくらいに回した。


 ……全然痛くない!


 油をさしたようなスムーズな動きに、穂積は興奮した。


 キャッチャーの倉石が立ち上がった。穂積に向かって「どんと来い!」と叫ぶ。


 穂積は「あっ」と声をあげた。横溝少佐を思い起こしたのだ。


 もしかすると俺はすでに死んでいるのかもしれない。人が死に逝く時、走馬灯のように人生を振り返るのと同じに、悔いを残した場面をもう一度やり直させてやろうという天の配財によって、この場にいる気がした。それならば、思いっきりやってみるのも悪くない。


 グローブの中のボールをぐっと握る。ほどよく湿った指にボールが吸い付く感覚が気持ちよかった。


 穂積は全身を使って振りかぶった。満塁の走者に牽制は無用だ。


 その時、更に気がついたことがある。バットが木製ではないのだ。どうやら金属製の物らしく当たれば飛ぶ、という感覚をもった。


 高く掲げた足が砂を撒く。軸足に体重を乗せてためを作り、そして一気に腕を振った。


 ドスン!


 白球が一直線にミットに収まった。


 キャッチャーの倉石が目を見張るのがわかる。バッターボックスの柊もボールの軌道を何度も確認していた。


 そうだ。これだ! 穂積の全身が震えた。肩を壊してから一度も投球していないにもかかわらず、体はちゃんと覚えていた。弓なりにしなる腕からボールを押し出す時のタイミング。爪先で弾く時、わずかに中指の力を意識すると直球であるボールの軌道が大きく揺れるのだ。穂積ならではの投球だが、これで多くの打者が翻弄されたのだ。


 倉石の返球が来た。それを受け取り穂積は倉石の気持ちを読んだ。


『こんな球、どこに隠していた!』


 倉石が直接叫んだのではない。投げ返されたボールに込められた感情が伝わったのだ。野球とは、ただ単に勝ち負けを競うスポーツではない。投げる球、受ける球、そして打たれる球とボールを介して人と人を結びつけるスポーツなのだ。


 穂積はそんな野球に惚れ込んでいた。弾幕をかいくぐり、敵陣へ一発でも弾を当てようとする戦争とは大違いだった。弾を撃てば撃つほど憎しみが広がり、人と人との分断が増すばかりの戦争……。


 穂積は呆然と立ち尽くした。


 今更に、横溝少佐の指摘が身に染みた。


 その言葉通り、お国の為ならば死んでも構わないと軍隊に志願したのは、野球の出来なくなった自分の悲嘆を隠すためなのだ。その自暴自棄がなんでもいいから打ち込めるものを探した結果、そこに戦争があったに過ぎない。


 身内から湧き上がる感情があった。


 やっぱり……野球はいい!


 穂積が振りかぶる。怒涛の歓声がその背中を押した。穂積の投球に対する期待の声援だ。それが更なる力となり、穂積の球に命を与えた。


 ギューン。指から弾き出されたボールが唸りをあげる。


 しかしその球は、キャッチャーミットに収まる前に弾き返されたのだ。


 穂積は見た。柊というバッターが見事なバットコントロールでボールに食らいつく姿を。


 打球は大きく右に逸れて、ファールスタンドに飛び込んだ。


 思った通り、金属製のバットは木製の物よりも反発性に富んでいるようだ。


 だが、それだけではない。柊という打者は確実に球筋を掴みつつあるのだ。穂積にとって快心のボールを打ち返すとは、改めて非凡な才能を秘めたバッターだと認めざるをえない。


 キャッチャーの倉石が表情を引き締しめて両手を広げる。


 ボールを散らせ!


 声にはならないメッセージが穂積に届いた。


 座りなおした倉石がサインを出した。だが、そのサインが何を要求しているのか穂積にはわからない。なにせ柳瀬という別人の体を借りているのだ。サインの取り決めなど知る由もない。


 ままよ!


 穂積は外角への変化球と推測し、思いっきりのカーブを投げ込んだ。


 柊はわずかに反応してボールを見送った。その仕草は冷静そのものだ。だが、慌てたのは倉石だった。外角への要求は正解だったようだが、カーブという球種は違っていたようだ。飛びつくようにミットを差し出してボールを捕球すると、タイムを掛ける。


「おい」マウンドに駆け寄った倉石が蒼い顔でいった。「あんないいカーブをいつ憶えた?」


 穂積はどこまで答えていいか判らずに笑ってごまかした。


「お前のションベンカーブが、見違えるほど良くなってる。それとも、これはまぐれか?」


 どうやら、柳瀬という投手はカーブが苦手らしい。それではさっきのサインは……。


「スライダーのサインでカーブを投げられたんじゃたまらない。後逸でもしようものならサヨナラ負けだ」


「……すまん」穂積は言いながら考えた。すらいだーとは聞いたことのない球種だ。次にこの球種を要求されたら、どんなボールを投げるのかわからない。これは困った状況だった。


 じっと倉石の目がこちらを見ている。不思議な後ろめたさがあった。キャッチャーであるなら、今の柳瀬がまったく違う投球をしていることは承知のはずだ。まさか別人が柳瀬の体に入り込んだなどと気がつくとは思えないが・・・・。


「おい」倉石がいった。「そのカーブ、ちゃんと投げられるか?」


「あ、ああ。大丈夫だ」


「ほんとだな。練習でもこの大会でも一球も投げていない球だぞ。自信はあるのか」


「……任せてくれ。自信はある」


「……よし。スライダーは中盤で柊に打ち込まれているからな。カーブが使えるならおもしろくなるぞ」


 倉石はもう一度、サインの確認をし始めた。内心ほっとしながら穂積もそれに聞き入る。この倉石という男の前向きさに救われた思いだ。キャッチャーとして最高の男に違いない。


「さっきのスライダーのサインはカーブに変えよう」


「わかった」


「それにしても……」意味ありげに倉石は言葉を切った。「今日のお前はどうかしている。疲れきってボールの勢いも落ちて来たと思ったら、突然のように復活するんだからな。しかも、今までにないボールを投げて。まるで、別人のようだ」


 目が泳いでいなければいいが。そう思いながら穂積は笑った。


 白い歯を見せて倉石も笑う。「いや、これはお前のじいさんの力かもしれないぞ。病院で応援しているじいさんの為にも、ここは優勝といこうぜ!」


 背中を見せて倉石が走り去る。


 そうか……。柳瀬という投手のおじいさんは入院しているのか。ならば、なおさら手を抜くわけにはいかない。この柳瀬という男の為にも、優勝を勝ち取るのだ。


 穂積の意識は試合のみに集中した。打席の柊は最後のバッターという気負いもなく、悠然とバットを振る。


 その目が穂積とぶつかった。言葉にならない感情がその視線に溢れていた。野球を愛する心が伝わって来る。この男も苦しい練習に耐え、厳しく自らを鍛えてこの場所に立っているのだ。


 カウント、ワンボール、ツーストライク。


 倉石のミットの下で、指が踊る。内角高めの釣り球だ。


 穂積の速球が唸りをあげた。わずかにのけぞってボールを見逃した柊のバットは、ぴくりとも動かない。そこから、球種を絞って待っている可能性を感じた。果たして、どのボールを待っているのか。


 矢継ぎ早のサインが倉石から送られた。今度はカーブ。それも内角への要求だ。これほどの打者ともなれば、外角へと逃げたい気持ちが湧き上がるが、投球は強気で行けという言葉があるように戦いに弱気は禁物なのだ。幸いなことに倉石は強気のキャッチャーだった。穂積も同じ気概でやって来た。何度も打ち込まれてはこの言葉を思い出し、外角へと逃げる弱気な投球を戒めてきたのだ。バッテリーは絶妙の呼吸で球種を決めた。


「倉石。ボールを受け止めてくれ!」


 穂積の指先にボールが引っかかる。最高の回転と軌道を描きながらのカーブが投げられたその瞬間。


 カッキーン!


 金属バットの甲高い音が球場に響いた。


 白球が大空に吸い込まれてゆく。誰もがその軌道を快心の当たりと見守った。


 立ち上がる倉石の姿を見て、穂積もバックスタンドへ目を向けた。


 打球は風を切り、想像以上の飛距離を稼いでいる。スタンドに白球が吸い込まれた。息を呑む観衆。その静寂の中で外野審判の声が響く。


「ファール!」


 大歓声が蘇った。球場を包む喜びとため息の大音声が穂積の心を熱くした。勝負の醍醐味だ。スタンドに吸い込まれた白球はわずかにポールの外側だったのだ。それはボール一個分の違いだった。


 何食わぬ顔で仕切り直しのゼスチャーをする倉石だが、内心は血の気が失せたに違いない。穂積も同じ状況だったが、ファールになってほっとする半面、柊という選手の底知れない能力に心が躍る自分がいた。


 高校生にしてこれだけの力を発揮するとは。あのカーブは最高の球だった。球の回転もコースも申し分なく、たとえ打ったとしても後ろに弾くか、前に飛んでも凡フライというところだ。それを、ホームラン性の当たりにするなんて、この男は一体……。


 ホームラン性のファールに悔しがるでもなく、柊は次の準備を始めていた。足下を固め、上体と下半身のバランスを修正し、更に先ほどのボールの軌道と感触を確認する。その仕草は、野球を極めようとする修行者のようだった。


 こんな男が存在するのだ。野球にすべてを注ぎ込むような男が。


 ここは、本当にいい時代なのだ。たぶん戦争など無く、生活に困窮し明日をも知れない生活とは無縁の世界。出来ればこんな時代に生まれたかった。そうすればこの柊のように、己の好きな野球に専念することも出来たかもしれない。


 いや……。穂積は思い直した。


 そうではない。たとえ時代が違っても自分の肩は壊れていただろう。それが自分の持って生まれた運命だとしたら、どちらにしても野球は諦めざるを得ない。では、俺の人生はどこにあるのか。


 突然、穂積の上空を爆音が響いた。見上げると、無数の零式が空一杯に飛んでいる。


 幻と知りながらも、穂積は胸を突かれた。


 どれもが錆に覆われ、エンジン音にも不調が明らかな機体は今にも墜落しそうなのだ。


 お国の為に死ねと言われて乗せられた戦闘機は、整備不充分のポンコツだった。勇ましく飛び立ってもその多くが途中で不調を訴えて目的を果たさずに帰ってきた。物資の枯渇、鉄の精製さえままならない局面にあって、戦闘機の部品などろくにあるはずもない。だが、生き恥をさらしたとなじられるのは、特攻兵であって整備不充分の戦闘機ではない。飛ばない戦闘機を気合や愛国心で飛ばせと本気でどなる上官の姿は、どこか薄ら寒かった。


『今の上層部は常軌を逸している』


 少佐……あなたは間違ってはいなかった。


 穂積の視線は、キャッチャーの倉石が懸命に野手に指示を送る姿に向けられた。


 どの世界にも必死で生きている人間がいる。たかが野球にさえこれほどに情熱を傾けられる者の存在は、人間の価値の素晴らしさを物語っている。


 いつの間にか、幻影の零式戦闘機の姿は消えていた。


「さあ、仕切り直しだ!」倉石の声が聞こえる。


 そうだ。仕切り直すのだ。


 穂積はグローブに収まるボールを見つめた。


 野球がすべてを教えてくれていた。人と人との繋がりも、生きることの素晴らしさも。


 たかが野球。されど野球。


 横溝少佐。あなたの言葉は本当だ。


 死ぬな!


 倉石からのサインは、内角高めのストレート。しかも倉石が全身で要求してきたのは、打者の胸元を抉るような剛速球だった。






 開け放たれた窓から蝉の声が聞こえる。


 微かに匂う草木の香りも、心の平安を与えてくれているようで心地いい。


 狭い場所や締め切った部屋にいるのが苦手で、いつも開放的な雰囲気を好んだ。だから、自分のいる場所ではなるべく窓を開け、日差しや風を呼び込むために開け放つようにしていた。春や夏なら問題はないが、秋冬にも同じことをするのには家族からの苦情が絶えなかった。おかげで冬ともなれば独り自室に追いやられ、家族団欒も別々にというようなこともあったのだ。 


 病院の一室はテレビからの歓声と蝉の声で満たされており、絶えず響いている呼吸器の音を消してくれていた。ここに入院してからはいつもの閉塞感が嘘のように消えていたが、今日になってめずらしくその癖が蘇った。思うように動かない体で何とか意志を伝えて、引かれていたカーテンと窓を開けてもらったのだ。


「お父さん。巧ががんばっていますよ」


 妻の琴美の声に、視線をテレビに移した。小さなテレビ画面の中に、まばゆい白のユニホームを着た孫の姿があった。その表情は激闘の疲れだけでなく、次に控える選手の登場に緊張感でこわばっていた。マウンドの土をならし滴る汗をぬぐった孫の巧が打席に迎えるのは、今大会屈指のスラッガーだった。


 柊 広大。


 ここだ。この場面だ。


 九回裏、ツーアウト満塁。この瞬間をどれほど待ったことか。あれから六十年以上が経ち、この身は老い果てた。約束された寿命がどこまであるのか気をもんだ日々もあったが、なんとか辿り着くことが出来たことに感慨も深い。


 画面の中で巧の表情が変わる。その微妙な変化に気づいたのは、やはりキャッチャーの倉石だった。駆け寄る倉石が巧に掛けた言葉が手に取るようにわかる。


「おい、柳瀬。どうしたんだ?」


 それがすべての始まりだった。すでに、倉石が相手にしているのは柳瀬ではなく穂積だ。


 なんという運命の悪戯か。


 一人娘の洋子が結婚相手を紹介した時、相手の名前を聞いて腰を抜かした。


 柳瀬宏次。


 まさかと耳を疑う一方で、あの時の体験がここへ繋がるのかと瞬時に理解する自分がいた。しかし、確証を得るためには、更に十数年の忍耐が必要だった。


 そして孫が生まれた。男の子だ。命名は、巧。


 娘夫婦が愛情込めて考えた。いい名前だと喜んだ。その心の内で、将来この子が野球をする姿を想像した。この時点で推測は確信へと変わっていたが、今度は自分に残された時間が問題となった。


 体調を崩したのは、巧が高校に進学した直後だった。


 検査の結果、肺に癌が見つかった。しかし、九十を過ぎた年齢では、癌そのものより老齢による肉体の衰えの方が深刻だった。この時に初めて焦りが生じた。


 もしや、このまま死んであの場面が見られないということになるのではないか。入院を余儀なくされた身は、その日のためだけに命を繋いだ。


 そして、更なる偶然が判明した。


 巧とバッテリーを組んだ倉石は、横溝少佐の妹さんの孫だというのだ。


 愕然とした。


 不思議なる運命の糸は、最後に大きな縁へと結びついたのだ。


 倉石を伴って見舞いに訪れた妹さんが教えてくれた。


 横溝少佐は、自分が飛び立った次の日、自らも特攻し帰らぬ人となったのだと。


 最後の夜の少佐とのキャッチボールが忘れられない。あの時、もっと本気になってボールを投げ込んでいればと、後悔が募る。


 巧の投球が蘇った。火のようなストレートが投げ込まれると、スタンドが沸いた。ベッドで動けない体が、その感触を思い出し疼いた。


 そうだ。その球だ。見ろ。倉石が驚いている。すごい、すごいぞ。さあ、時間がない。そのまま、あの時のままにすべてが進んでくれ。そして……最後のあの一球がどんな結末を迎えたのか見せてくれ!


 最後の一球。


 内角高め、ストレートのサイン通りに投げ込んだボールの行く末を自分は知らない。投げ込んだ瞬間、その身は零式の操縦室にいたのだ。


 不調を訴えるエンジン。感傷にひたる間もなく、操縦不能になった機体に悪戦苦闘しなければならなかった。


 大きく縦に割れるカーブに倉石が慌てて飛びついた。


「あんないいカーブ、いつ憶えた?」


 その言葉も憶えている。孫の巧はカーブが苦手だった。何度か投げ方を教えはしたが、どうしてもうまくいかない。だが、その代わりに習得したスライダーは、巧の速球をいかした最高の武器となった。


 すらいだー。


 倉石がスライダーのサインをカーブに変更したのもつい昨日のようだ。




 操縦不能に陥った零式の機内で上下の感覚を失った時、やはり死に行く運命が見せた幻だったのかと考えた。特攻の目的が果たされない悔しさはない。ただ、このまま何もせずに海の藻屑と消え去る命は惜しかった。幻の世界で自分は充実の生を生きていた。こんな戦争は早く終らせて、みなが人生をまっとうできる世界を見てみたい。そんな強い欲求が心を占めていた。


 そして零式は――落ちた。






 スタンドの歓声がひときわ大きくなった。巧の投げた内角高めの直球が見送られ、次に投げたカーブを見事なバッティングで柊が弾き返す。だが、それがポール際すれすれのファールとコールされて、スタンドの興奮が爆発したのだ。


 もう少しであの場面が訪れる。さっきから、周囲が暗い。すべての音も遠くに聞こえ始めていた。残された時間が底を尽きつつあるのを実感しながらテレビ画面に目を凝らした。


「あなた」妻の琴美がいった。「巧はあなたの為にも絶対に優勝するって頑張っているんですよ。あなたが肩を壊して野球をできなくなった昔話を、あの子は涙を流して聞いていました。本当に、良い孫に恵まれましたね。きっと、あなたと一緒に戦っているのでしょう。やってくれます。絶対に」


 本当にそうあってほしい。遠ざかる意識を必死につなぎ止めながら願った。妻の言葉通り、巧と自分は一緒に戦っていた。そして、横溝少佐も倉石と共にいる。不思議なる縁によって繋がれた時空。野球の出来なくなったわが身を悲しむあまり、捨て鉢で戦争へと身を投じて家族を悲しませた自分が、こうして命を継ぎ、娘から孫へと至る人生のバトンを渡している。


 倉石が全身を使ってサインを出した。


 内角高めのストレート。胸元を抉るような剛速球で柊を打ち取るぞ!


「来い、柳瀬!」


 倉石の声が耳朶を打った。


 病室に響き渡る機械音。妻の琴美が血相を変える。医者と看護師が現れ、慌しく処置を始めた。


 テレビ画面で巧の振りかぶる姿が見える。その表情に一瞬、戸惑いが浮かぶ。投球動作に入った刹那、穂積の意識が巧に戻ったのだ。自分にはそれがわかった。だが、肉体は穂積の力を残したままだ。


 ビュン!


 孫と自分が放った渾身のストレート。


 柊のバットが火を噴いた。乾いた金属音を響かせて、白球が空高く舞う。


「血圧低下! 脈、振れません!」


 琴美の自分を呼ぶ声が聞こえる。混濁する意識の中で不思議なことに、青空に吸い込まれてゆくボールだけはよく見えていた。


 いい角度で打ち返されたボールが、バックスタンド目指して飛んでゆく。


 見上げる巧と倉石の表情もよくわかる。ふたりは祈るような気持ちで「入るな!」と叫んでいた。自分も同じ気持ちだった。


 ボールが落ちてくる。時ならぬ風の力によってボールが失速したのだ。次の瞬間、必死に駆け寄った外野手が、スタンドの壁に激突覚悟でジャンプする。


 球場は静寂に包まれた。誰しもがその光景に固唾を呑んでいる。


 ボールは外野手のグローブに納まっていた。


 球場全体が揺れた。爆発する歓声。倉石が駆け寄り巧を抱き上げる。


 青春の熱が弾けていた。


 穂積の耳に声が響く。


『試合終了!』


 命の炎は、溢れる歓喜の中――ひっそりと消えた。






 海上に浮かぶ零式の機体。


 気がついた穂積は慌てて外に出ようとした。だが、風防が開かない。渾身の力でこじ開けようと足まで使ったが、ぴくりとも動かなかった。


 海水がどんどん入ってくる。沈没と溺死の恐怖が体を貫いた。


 閉所への嫌悪はこの時のものだろう。


 穂積は力の限り風防ガラスを蹴った。海水に頭が沈んだ頃、手ごたえがあった。最後の力で思いっきり蹴り上げると、風防が外れた。


 喘ぐように空気を吸い込む。見上げると青い空が視界いっぱいに広がっている。その空に白球が吸い込まれてゆくのが見えた。


 沈みゆく機体を捨てて、穂積は海に飛び込んだ。臆病者となじられることに恐れはない。


 穂積は力の限り泳ぎ続けた。


 ――明日を生きるために。




                   おわり

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特攻甲子園 関谷光太郎 @Yorozuya01

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