第38話 クロワッサン

 先程の妙な間は何だったのだろう。

 僕は自分の告白で発生した雰囲気に悩まされる。

 ちょうど思い立ったかのようにアマネがお風呂に行ってくれたので良かったが、あのままでは緊張で身が持たない。

 僕は嘘はついていない。実際に彼女を抱き抱えて運んだことでパンのアイデアを閃いた。

 だが詳細までは恥ずかしくて言えなかった。


「キミの体がとても柔らかかったから」


 など、恥ずかしい上に気取りすぎじゃないか。

 だがアマネの反応はどうしたことか。

 まさか僕が彼女に惚れているように、彼女も僕を好きなのか?

 嫌われてはいないだろうし、同居人としては恐らく好いて貰っている。それでも男女として好きでいてくれるなんて、夢みたいなことはきっと無い。

 僕はそう冷めた考えで平静を装った。

 そうしないと僕の中でなにかが弾けてしまいそうだと感じつつ。


「お待たせ。名前は決まった?」


 そうこうしているとアマネがお風呂から戻ってきた。

 汗を洗い流したせいかフェロモンの量が減っており、代わりに漂う石鹸の匂いが僕の心を落ち着かせていく。

 汗の匂いと石鹸の匂いで、どちらが良いかは人それぞれ……と言っても、大半が石鹸を好むだろう。

 だが僕にとっては好きな子のモノであれば汗のほうが刺激的だった。


「そうだなあ。パイとパンの良いところ取りだし、パイパ───」

「わー!」


 僕が言おうとした名前を急にアマネは遮った。

 どうしたのだろう?


「もしやと思ったけれど、それだけはダメ」

「え?」

「日本語では下品な意味があるから、お願いだから言わないで」


 そう言われてもジャポネ語では変な意味などないのに。

 とは思うが、アマネを困らせてでも押し通したい名前でもないのでこれはボツにしよう。

 少しだけ頭を捻らせてから、僕は次の名前を告げた。


「これならどうだろう。霊峰シホウの美味しい空気をたっぷりと含んだクロワッサンだから、シホウクロワッサン」

「いいわねそれ。それでいきましょう」


 どうやら今度の名前は気に入ってもらえたようだ。

 これで僕たちの考えたパンが三つ揃ったわけだが、残る問題はどうやって売りにいくかだろう。当面はホームで焼いたパンをカーゴに乗せて街まで行けば良いが、将来的にはそれでは不十分かもしれない。

 なにより焼きたての味を提供するのは不可能だ。


「最初から成功すると思うなよ。チョーシに乗るなって」


 首を捻る僕の心に、いつかのトスカーさんの言葉が刺さる。


「その通りだね」


 まだこの段階では心配するような内容ではないと、僕は自分を戒める。そしてもう一度よく考えて、あることに気がついた。


「これで目標だった三つのパンが揃ったね。次の土曜日にでも公園に売りに行きたいけれど、アマネはそれでいいかな?」

「異論なし」

「じゃあ、今日のうちはいちご大福パンに使う木苺を集めておこう。今のうちに確保しないと、旬が過ぎてしまうからね」

「わかったわ」

「それとしばらく食事は試作したパンだけにしよう。そうすることで、今は気づいていない欠点が見つかるかも知れないし」


 決戦は土曜日。

 アマネもそれに納得してくれた。

 やるべきことが決まった僕は、数十年ぶりに仕事への生き甲斐を取り戻していた。


「それと……明日はお弁当にパンを持って街まで行こう。やらなきゃいけないことがある」


 移動販売とは言えお店を開くのだ。

 もしかしたら不足の事態に見舞われるかもしれないし、恐ろしい目にあうかもしれない。

 それでも避けては通れない問題が残っていたことに僕は気がつく。

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