第37話 パイパン

 現実では黙々と、だが脳内では小難しく講釈を垂れ流しながら試食をしたわたしは「おいしい」と一言で言い表す。

 その言葉にヨハネは満足げに微笑んで、その笑顔になんだか胸が苦しい。


「安心したよ。アマネが起きてくるのにあわせて、このパンを完成させられて。実はさっきまでは細かい調整で失敗が続いていたから、これも失敗だったらちょっと恥ずかしいところだったよ」


 ああ、だから厨房にはバターの香りが漂っていたのか。

 試食の前なら「なるほど」と唸ったであろうが、この味にしびれているわたしとしてはもうどうでもよい。


「どうしたの? さっきからどこか上の空だけど」

「な、なんでもないわ」

「なるほど。放心するくらいに美味しかったようだね。それならとても嬉しいな」


 やめて。

 そんな顔でいまのわたしを見ないで。

 非常に我儘ながら、わたしはヨハネに対して心の中で訴える。

 だってこんなにも幸せそうな笑顔で、しかもわたしがだらしない顔になっていることを喜んでくれるだなんて気恥ずかしい。


「さて、そろそろ種明かしと行きたいんだけれど、いいかな?」


 そんなヨハネの問いかけに、わたしは無言で頷いた。


「このパンの生地は発酵させたクロワッサン生地だけれど、パイ生地でもあるとはさっきから言っているよね。アマネはこの二つの生地の違いを知っているかい?」

「発酵させたか、させていないかくらいにしか」

「そうだね。でも、もうひとつ違いがあるんだ」


 ヨハネの説明にわたしは小首を傾げた。

 何が違うのだろうと。


「パイと違ってクロワッサンの生地には細かい孔を開けるものなんだ。ただでさえ発酵させたことで生地が膨らんでいるから、空気を抜くことで膨らみすぎないようにするんだよ。逆にパイは焼く前には膨らんでいない状態から、焼くことで一気に生地を膨らませて大きくさせるんだよ」

「ふうん。でもごめん、ちょっと初歩的な質問をしてもいいかな」


 わたしはヨハネの解説に納得をしつつも、彼に初歩的な質問を投げ掛ける。なにせわたしはパイもクロワッサンを作ったことがなかったので、そもそもの部分を知らなかったからだ。


「どうして焼くと膨らむの?」

「アマネは知らないのか。クロワッサンを作ったことは?」

「いいえ、まったく。店長もクロワッサンには一切さわらせてくれなかったし」

「なら仕方がないか。じゃあパイ生地やクロワッサンの生地が、バターを挟んで何度も折り返して作るのはわかるかな」

「それならなんとか。店長が作るのを見たことはあるし」

「ならその先から説明するよ。クロワッサンの生地は整形する際に三、四回ほど折り畳む訳だけど、そうすると生地には何段にも及ぶ薄い層が出来るんだ。四回だとして十六枚重ねだね。それらの層の間では練り込んだバターがしきいの役目をするので、お互いにくっつくことがない」

「食べたときに薄く折り重なっている部分のことね」

「その通り。ではこの層が折り重なった生地を窯で焼き上げるとどうなるか。しきいになっていたバターが熱で溶けて、水分が水蒸気となって膨張するんだ。さながらパンケーキに入れたベーキングパウダーが爆発して生地を膨らませるかのように、蒸発したバターの水蒸気が層と層の間を押し退けていく」

「その水蒸気が生地を膨らませるわけか」


 なるほど。そうやってパイやクロワッサンのサクサクとした層は生まれるのか。

 わたしはヨハネの解説に感嘆して相づちを打つ。

 だが今度は新しい疑問が浮かんできてしまう。何故クロワッサンでは膨らませ過ぎたらいけないのかと。


「パイの場合は火加減にさえ気を付ければそのまま焼き固まってくれる。だがクロワッサンの場合には、そのままでは厄介な問題があるんだ」

「それがさっき言っていた『膨らませ過ぎ』ってこと?」

「その通り。アマネも知っての通り、クロワッサンの生地は発酵させているから生地そのものが最初から膨らんでいる。つまりは柔らかいんだ。それをパイと同じ要領で焼いてしまうと、生地は一度大きく膨らんだあとに膨らみすぎて形を維持できなくなり、最後には萎んでしまうんだよ。それを防ぐためにあらかじめ余計な空気を抜くための孔を開けるというわけさ」

「でもこのパンはそうではないみたいね。一つ一つの層が薄くてパリパリで、全体はふかふかに膨らんでいるし」

「その通り。だからこのパンの生地は、孔を空けていないという意味でパイ生地なんだ」

「でもそれじゃあ、自分で萎んでしまうと言ったじゃない。どうなっているの?」

「秘密は焼くときに生地を覆っていた金属の型さ。あれで膨らんだ生地の側面から空気が抜けないようにガードして、焼き固まるまでの支えにしているんだ」


 種を明かされてみると、驚くほどに計算されたこのパンに、わたしは驚きしかない。

 これをヨハネは一晩で考えたのか。


「不思議ね。こうしてパリパリサクサクにすると、酸味が気にならないなんて」

「これはだね……空気の味を利用しているんだ」

「どう言うこと?」

「試しに舌先に意識を集中させて、口をすぼめて息を吸ってごらん」

「こうして……しゅううう」

「そうそう。その調子でしばらく吸って吐いてを繰り返すんだ」


 わたしはヨハネの指示通りに呼吸を繰り返した。

 すると不思議なもので、口の中が次第にほんのりと甘く感じてきた。

 砂糖のような明確な甘味ではないが、呼吸の影響で乾いた舌を唾液で濡らすとその甘さが口一杯に広がっていく。


「なんだかちょっとだけ甘いような感じはするわね」

「それが空気の味だよ。少しだけ甘いだろう?」

「うん」

「アマネの世界ではどうかは知らないが、こちらでのクロワッサンはこの空気の味を利用するために、空気を含んだ薄い層を持つパンとして産まれたんだ。今回は空気の量を増やしてフカフカにしたら酸味の癖を押さえられるのではないかと挑戦した訳だけど、結果は大成功だ」

「わたしでは思い付かない発送ね。凄いじゃない、ヨハネ」

「いや……アハハ」

「昨日の今日で思い付くだなんて、なにかヒントでもあったの?」

「そ、それは……」


 わたしは純粋な興味でヨハネに発想の元をたずねた。

 するとヨハネは急に顔を赤らめ始めて、なにやら良からぬことを想像したと思しき反応をしてきた。

 なにが彼の琴線に触れたのか。


「昨夜、アマネをベッドに運んだときに閃いたんだ」


 ヨハネは顔を真っ赤にして答えた。

 まさか本当にそれだけなのかはわからなかったが、と言うことは昨日ヨハネはわたしの体を触ったのは間違いがない。

 ヨハネは一言も追求していないのにも関わらず、わたしは体のあちこちをヨハネが愛撫したのではないかと疑ってしまった。

 しかもそれに怒ることもなく、もしかしたらの可能性を実際にされた場合を想像して固まってしまうのだからよっぽどか。

 お互いに顔を赤らめて、ちょっとだけ気まずい雰囲気が食卓に流れてしまった。


 ドクドクと高鳴る胸の鼓動。

 赤い頬で見つめ会うわたしたち。

 これがもし恋人同士ならば子供には見せられないわよと言える妙な雰囲気にわたしは黙ってしまう。

 とりあえず落ち着こう。

 そう思って、ぐるぐると回転する思考を制御しようとしたわたしはようやくあることに気がついた。

 昨夜は記憶にないが、ヨハネがベッドに運んでくれたらしい。

 ならばわたしは、おそらく厨房で気絶でもしてしまい、そのまま先程まで寝ていたと言うことになる。

 当然お風呂にも入っていないし、ただでさえ朝から街を散策した後なので、下着には汗も染みていたであろう。

 気になったわたしは自分の匂いを嗅いでみて、下着から汗の匂いが漂うのを確認する。

 これはちょっと恥ずかしい。


「ねえヨハネ……ちょっとシャワーを浴びてくるね。昨夜はお風呂に入ってなかったし。それと昨夜はヨハネがベッドにまで運んでくれ多ということは、厨房で倒れちゃったんでしょ? 前にも同じような経験が何度かあったし、心配させてゴメン」

「気にしなくてもいいよ。僕はアマネが無事ならばそれでいい」

「ありがとう。じゃあちょっと行ってくるわね。その間にこのパンの名前でも考えていてよ」


 わたしは逃げるように風呂場へと駆け込んで、衣服を脱ぐと頭からシャワーを浴びた。

 汗を流すのも当然目的ではあるが、それ以上に妄想で熱を帯びた頭を冷やさんと、わたしは低めの温度でお湯を出す。

 寝ていたので気づき様の無い、そして体にも刻まれていないヨハネの感覚を探しながらわたしはシャワーを浴びた。

 そんなせいか、シャワーのお湯が触れる熱が、まるで全てヨハネのものに錯覚してしまったわたしは余計に顔が赤くなる。

 いくらなんでもこんなに興奮して、勝手に発情してしまうなんてフェイトちゃんより酷いのかも。

 そんな風に、わたしは暴走する自分の心にしばし向き合った。

 先程の妙な空気を考えれば、これでもマシなのだろう。

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