第35話 ミルフィーユ

 悶えながらも自分の気持ちを確認し、頭痛の収まったわたしは着替えて部屋を出る。

 冷静になれば昨夜からお風呂に入っていないのだが、台所から漂う美味しそうな匂いがそれを忘れさせていた。


「何をしているの?」

「おはようアマネ。気分はもういいのかい?」

「まあね」

「それは良かった」


 質問に質問で返すヨハネにわたしは返答した。

 わたしの答えに安心した様子のヨハネは少し間を置くと、今度はわたしの質問に答える。


「パイ生地を作っているんだ」


 ヨハネがせっせと伸ばしている生地はたしかに薄い板状である。バターの匂いも漂っており、これはまさしくパイシートと言うやつだろう。

 お菓子作りを始めるヨハネの様子に、わたしは「はて?」と小首を傾げてしまう。わたしのいちご大福パンに触発でもされたのだろうか。


「厳密には発酵させているから、クロワッサンの生地なんだけれどね」

「なるほど。でもクロワッサンの生地にしたからと言って、大きく変わるのかしら? バターが多いからある程度は癖が押さえられるのかもとは思うけれど」

「その点は考えてあるさ。最初に言ったけれど、これは一応パイ生地だからね」

「イマイチわからないわね」

「ここから先は出来てからのお楽しみさ」

「昨日の仕返しね、んもー」


 ヨハネは昨夜の仕返しとばかりに作っているパンの詳細を隠してしまう。傍目には板状の生地にバターを挟み、薄く伸ばすことを繰り返しているようにしか見えない。

 その後、カットして形を整形した生地は二次発酵を迎えて少し膨らんだ。

 形は四角でクロワッサンと言うよりもデニッシュに近いのだろうか。


「あとはこの型に入れて焼くだけだ」


 ヨハネが取り出したのは四角い型で、ちょうどカットした生地を覆うように一回り大きいモノだった。

 普通のクロワッサンやデニッシュではそのまま焼くものだが、あれは何であろう。


「ねえヨハネ、どうして型なんて使ったの?」

「それは焼き上がってからのお楽しみさ」

「またそれ? 意地悪なんだから」

「ハハハ。昨日のお返しだよ」

「あんまり意地悪をすると、わたしからも意地悪してやるんだから」

「だったら刺激的なイタズラはしないでおくれ。僕も我慢できなくなるし」

「言ったな、このむっつりスケベ」

「ハハハ」


 今日のヨハネはちょっと上機嫌で、おそらくいま焼いているパンに余程の自信があるのだろう。

 だったら見せていただこうじゃないの。

 ヨハネが考えた新しいパンを。


 笑いながらの問答を繰り返すうちに時間は瞬く間に過ぎていき、ヨハネのパンは焼き上がる。

 先日のバター巻きパンよりも強いバターの匂いは香ばしく、パンの表面はパリパリに焼けていた。

 驚いたのは型を外した後のパンの姿。焼く前と比べると、高さは倍近くにまで膨らんでいたのだ。


「随分と膨らんだわね」

「そうだね。そろそろ種明かしとしよう」

「待った。せっかくだから、それは試食をしてからにしましょう。寝起きでそのまま見学をさせてもらっていたから、まだ何も食べていなくて」

「ああ。それがいい」


 わたしも手伝って、型から外したパンを籠に積めると、わたしたちは食卓へ向かった。

 このパンは焼き上がり際に膨らんだものの、パンそのものが最初から大きかった訳ではないので見た目よりも軽い。まるで千枚の葉が折り重なっているかのようだ。


「少し崩れやすいかもしれないから、気をつけて食べてくれ」

「わかったわ」


 わたしは忠告を受け入れて、慎重に噛りついた。


 ざくり。

 当たった前歯がパンに食い込んでいく。

 程よい固さを持ちつつも薄くて脆い生地の層は、口のなかでホロホロと崩れてしまう。唾棄を吸った生地が口のなかに少し張り付くのはご愛敬だろうか。

 ヨハネの言うとおり崩れやすいこのパンだが、それ以上に味わいの妙にわたしは驚かされる。このパンは酸味を効かせた初恋の味と比べても遜色ないレベルに生地の味がしっかりとわかるのに、酸味が驚くほどに気にならないからだ。

 ゆっくりと咀嚼すればじんわりと感じてくるものの、砂糖とはどこか違う甘さが酸味を覆い隠している。これはどういうからくりだろう。

 さく、さくと二口め以降を頬張ってもそれは変わらない。むしろこの甘さが隠す酸味が隠し味となって官能的にすらわたしは感じてしまう。

 今朝の寝起きで変なことを考えて、彼を意識してしまったからだろうか。初恋の味が恋人同士のキスならば、こちらはハネムーンを迎えた夫婦のキスのように甘く蕩けていく。

 昨夜の自信作だったいちご大福パンもこれには脱帽だ。

 悔しいが最高の味。そしてフェイトちゃん並みにむっつりとした感情を引き起こされたこの味には感服しかない。


「おいしい」


 わたしは胸の奥で渦巻く様々な感情をひっくるめて、そう答えることしか出来なかった。

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