第4話 ある日、森の中

 あれは夢だったのだろうか。

 目の前に迫る濁流と、それに流される大きな丸太。

 わたしにはお気に入りのペンダントを握りしめて祈ることしか出来なかった。

 そもそも大型の台風が迫ってきたこの日になぜわたしは川沿いを歩いていたのであろう。

 首と体が引き裂かれる感覚は、そんな何故をわたしの記憶から消し去っていた。


「ここは?」


 気がつくと、わたしは見知らぬ森のなかにいた。

 ご丁寧にテントを張って、寝袋に包まれた状態である。

 先程の光景は夢だったのだろうか。

 そう思って首筋を撫でてみると、そこにはまるで首筋を縫い合わせたかのようなみみず腫が広がっていた。


「ひゃあ」


 驚いたわたしは寝袋を脱いでテントから飛び出す。

 そしてここでようやく、わたしは見知らぬ場所にいることを自覚した。

 土地勘もなく、とりあえず山の中であろうことしかわからない。車のエンジン音も聞こえないほどに人工的な音はなく、整備された道は近くにないのかもしれない。

 場所を調べようにも頼みのスマホは手荷物になく、どうやらわたしをここに放置した誰かにとってそれは不都合なアイテムのようだ。

 誰かの策に乗せられたみたいでシャクではあるが、知らない人しかいない場所に放り込まれるよりはまだマシだろう。わたしはそう自分を偽って、ひとまず周囲の散策に向かった。


「よいしょ」


 小一時間……と言っても体感なので正確とは言えないが、周囲を探索し終えたわたしは元の場所に戻ってきた。

 テントの中に鉈があったことだけは幸いだろう。散策ついでに薪に使えそうな枝を集めたわたしは、意味もなくやりきった顔で汗を袖で拭う。

 だが薪を集められたとはいえ水や食料は一切手に入らなかった。

 当面は鉈と同様にテントの中にあった備蓄で充分であろうが、いつまでもソロキャンプに興じる訳にはいかないだろう。

 放っておけば衣服や体は汚れるだろうし、水が失くなれば乾きに飢えて死んでしまうだろう。

 そもそもわたしは気がついたら見知らぬ山の中に放置されていたのだ。誰がどのような理由でわたしを拐かしたのかはわからないが、助けが来る可能性に賭けてもおそらく分は悪い。


「ひとまずごはんにしようか」


 人里を目指して旅立つべきか、それともこの場所に居を構えて食料を確保するべきか。行き詰まったわたしは問題を先送りにして食事の準備に取りかかる。

 テントの中から取り出した材料をボールに開けて、わたしはその中をヘラで丁寧にかき混ぜた。

 適度に塩と油を混ぜてかき混ぜたことで小麦粉がグルテンを産み出して、次第に種に粘りが生まれてくる。次第に種の表面からは水気が消えてきたところで、ボールの側面に均一になるようわたしは種の形を整えた。


「あとはこれでヨシ」


 種が出来たら次は火の準備だ。

 釜戸の扱いも学んでいたことが幸いし、わたしは焚き火の準備には手間取らなかった。

 焚き火がある程度大きくなったところでボールをその火の中へと投げ込む。煤が入らないようにアルミホイルで蓋をしているし、ボールも陶器製なので焚き火程度の火ならどうということはない。ボールの中の種がこんがりと焼き上がるのをわたしは静かに待つ。


「お店のほうは大丈夫かな」


 ゆらゆらと揺れる炎の影響なのか、わたしはふと感傷に浸っていた。

 あの日、あの台風の中でわたしが何をしていたのかは自分でもわからない。だが推測としては店に向かっている最中だったのだろうとわたしは思う。

 店とはわたしが働いている「戸塚ブレッド」という小さなパン屋さん。わたしはその店で駆け出しのパン職人として働いていた。

 人見知りが強い性分から「人間以外を相手にする仕事をしよう」と思い、パン屋の道を志したのは我ながら変に思う。職人としてパンを焼くだけならまだしも、パン屋になれば接客も必要なことに気づかない当時のわたしの考えは甘い。

 だが戸塚店長を始めとして気のおけない仲間に囲まれたことで、わたしの人見知りもだいぶ緩和されていった。正直言えば今でも知らない人間は苦手だが、常連客なら怖じけない程度にわたしは成長していた。

 わたしが急に失踪したことで皆も心配していることだろう。そのことを気がかりにして火を眺めるわたしの鼻に香ばしい香りが漂ってきた。


「そろそろ焼き上がったかな……っあつ!」


 匂いで焼き上がりを察したわたしはボールを取り出そうとしたが、ひとつだけ失敗をしていた。

 なにせこの火は焚き火である。そこにボールを放り込んでいるので、火が消えて熱が冷めるまで手出しが出来ないのだ。

 これが本式の炉で焼いたのであれば容易に取り出すことが出来たはずだ。だが陶器製のボールを炉の代わりにしたことで、まず炉を火から遠ざけられない事実にわたしは愕然としてしまう。


「せっかくのパンが。それに食料も台無しになっちゃう」


 集めた薪も限られた水と小麦粉も無駄にしてしまえば落ち込みもしよう。それでも諦めきれないわたしはまだ燃やしていない薪を菜箸代わりにしてボールを持ち上げると、ギリギリのところで手元に引き寄せることに成功した。

 焦ったが、冷静になれば大丈夫じゃないか。

 そう安堵したわたしは手を滑らせる。


「おっと。気をつけて」

「ありがとう」


 薪の間から熱せられたボールを落としたわたしは、それを受け止めて声をかけた誰かに返事をしていた。

 全く警戒していなかったのもある。

 故にわたしは、その誰かの存在に驚くのが遅れてしまった。


「こんにちはお嬢さん。こんな山奥でひとりソロキャンプとは珍しいね」

「って、誰?!」


 これがわたしとヨハネの出会いだった。

 わたしの名前は天音ミレッタ。

 小さなパン屋「戸塚ブレッド」の未熟なパン職人である。

 このときのわたしはここが何処なのかも、そしてヨハネがどのような存在であるかもまだ知らない。

 それどころか、ここが日本ではなく異世界であろうなど、想像すらしていなかった。

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